取材・文◎本誌編集部
写真◎知来 要、狩野イサム
図版提供◎王仙堂、長崎大学附属図書
「倉場富三郎(くらばとみさぶろう、トーマス・アルバート・グラバー)は、明治3(1870)年スコットランド人の貿易商トーマス・ブレイク・グラバーと、日本人のツルとの間に生まれました。長崎市のグラバー邸で知られる父は、蒸気機関車の試走や、船を修理する西洋式ドックを建設し長崎を造船の街として発展させるなど、日本の近代化に大きな役割を果たした人物です。
1889年、アメリカのペンシルベニア大学の医学部生物科に入学し、常に動植物、魚類などの緻密な水彩画や銅版画に触れ、自身もアメリカ人画家に生物画を学びました。帰国後、父が設立した『ホームリンガー商会』に勤め、第二次大戦前まで長崎の実業界・社交界の中心人物として活躍します。その間、イギリスから輸入した蒸気トロール漁船を日本で初めて導入します。水揚げされた魚たちが市場に並ぶ姿に長崎近海の魚種の豊富さを感じ、図譜の編纂を思い立ったのは、想像に難くないでしょう。そして、市場から魚を運ばせ、当時、一流の日本画家たち絵師を雇って記録に残したのです」
今回、本誌の特集で『グラバー図譜』について執筆いただいた吉村明彦さんは言う。
『グラバー図譜』の正式名は『日本西部及び南部魚類図譜』で、魚介類約800図、全32集から構成され明治末から昭和初期の長崎で約20年かけて完成された。
以前取材した『グラバー図譜』の研究者で、長崎大学大学院 水産・環境科学総合研究科教授の山口敦子さんは、『グラバー図譜』について次のように語る。
「長崎近海は、魚の種類が多様で生態系も豊かです。生物学的多様性としては、深海や干潟、河口部、閉鎖的な内湾に多様な生物が生息しています。
有明海は干潟が大きく、大きな河口域になっています。出口は少し狭くなっていますが、その先は外洋とつながっています。そこから橘湾、五島灘とつながっていくにつれ、いろいろな魚が産卵のために入ってきます。外から来る魚の存在は、有明海の入り口で産卵して帰ってしまうので意外に知られていません。有明海は、東シナ海全域に生息する魚の保育所のような役割を果たしています。その下に八代海があって有明海とつながっているのですが、魚の行き来はあまりありません。八代海は生物多様性が高いのですが、魚の数の豊かさは有明海が勝ります。狭い水域にこうしたそれぞれ特徴的な海があるのも、長崎近海の豊かさの証拠です。
北海道も水産業が栄えていますが、そのぶん漁労面積も広いです。しかし、漁労面積と漁獲高の関係で見ると、長崎は本当に豊かな漁場だと思います。また、長崎近海は魚の生態を見ているだけでも面白く種類も実に豊富ですが、アカエイの新種も発見されているほど未だ奥が深い海です。こういう特徴を『グラバー図譜』を制作した倉場富三郎や江戸末期に蘭学医・生物学者として活躍したシーボルトが、早くから注目していたのではないでしょうか」
倉場富三郎は、そうした豊かな海域、天草灘、五島灘、玄界灘より釣り上げられた魚を克明に観察し、学名を査定した(疑問点は「?」で残した)。現在『グラバー図譜』は日本画家による博物画の美術的価値と同時に、当時の九州北部の魚類の状態を知る貴重な資料となっている。
「太平洋戦争開戦後、混血の富三郎はスパイ嫌疑をかけられグラバー邸を退去させられ妻に先立たれ、さらに原爆投下と晩年はさぞ苦しかったでしょう。終戦の翌日、1945年8月26日に74歳で生涯を終えるのですが、魚の種類が多様で生態系も豊かな長崎の海、若き日のアメリカ留学の博物学との出会いなど、その経験が存分に生かされた『グラバー図譜』の制作は、生涯いちばんの楽しい思い出だったのではないでしょうか」と吉村明彦氏は言う。
倉場富三郎の死後、遺言で『グラバー図譜』の元原稿は渋沢敬三に譲られる。敬三は昨年のNHK大河ドラマ『 青天を衝け』の主人公、渋沢栄一の孫にあたり、日銀総裁を務めた経済人だが、文化人としても民俗学や漁業史を研究し、『日本魚名集覧』や『日本釣魚技術史小考』などを執筆した。
「『図譜』の存在を知った渋沢敬三さんは、仕事で長崎を訪れたおりに倉場邸に立ち寄り、何時間もかけて熱心に『図譜』を見ていったそうです。富三郎は、そのときの渋沢の姿を嬉しく思い、遺言で『図譜』を託すよう書いておいたのだと思います。渋沢はこのような価値のある図譜は、水産庁の関連研究所や大学の水産学部などで活用されるべきだと考えて、1950年に長崎大学の水産学部に託しました」
そういった経緯も含めて倉場富三郎が、長年心血をそそいで完成させた『グラバー図譜』の存在は、結果として日本の水産学・生物学のレベルを大きく前進させた。そして、倉場富三郎の心を大きく動かしたのは、先にも言いったが「長崎を取り巻く海の豊かさ」ではないのか、と山口教授は言う。