2019
06.07
Vol.62 ②
瀬戸内海の絶品のマダイを求め、高松沖・鯛ラバ釣行
特集『釣魚・美味礼賛』
「日本の魚食を象徴する“睨みダイ”を瀬戸内・鯛ラバ釣行で鑑みる」より

五臓六腑を唸らせるマダイの食文化

取材・文◎フィッシングカフェ編集部 写真◎能丸健太郎

「この辺りのマダイは、お盆が過ぎて11月頃になると、しっかり脂が乗っておいしくなります。明石のマダイがおいしいのは、おいしくなる時期にちょうど明石海峡周辺にマダイがやって来る、ということでもあります」と、高松沖周辺を中心に遊漁船を営む「第一優勝丸」の船長、石川勝正さんは言う。
 明石沖、鳴門海峡など瀬戸内海で獲れるマダイの味の評判は、枚挙にいとまがない。全国的な知名度から言えば「明石の鯛」が有名だが、瀬戸内海のマダイの味を決めるのは、水温や潮回りなど釣れる時期。季節が寒くなるにしたがって、瀬戸内海を東進し、最終的には小豆島から鳴門海峡、明石海峡で抜群の味になるという。
 ところが昨年12月の時点ではマダイが東進しておらず、明石沖も鳴門海峡も釣果は今ひとつ。そこで石川船長の船に乗り、高松沖で鯛ラバ仕掛けを下ろした。

瀬戸内海の島々が複雑な潮流を導き、微生物から大型魚まで食物連鎖を利用した見事な生態系を維持している。

 今回は船長も釣り人として参加し、合計3名で午前6時に高松漁港を出船した。船長は潮の時合いを読み、女木島(めぎじま)、男木島(おぎじま)と次々とポイントを変えるが、水深は浅く20~40m。稀に深いポイントでも50mほどのため、鯛ラバのヘッドはタングステン製の40gで統一した。
 アタリが出たのは、最初の仕掛け投入から1時間後の7時40分頃だった。ヘッドの色はオレンジ。スカートは付けずにケイムラカラーのネクタイのみ。釣ったマダイは船長が丁寧にエアーを抜き生け簀に入れるのだが、脂が乗っておりなかなかエアーが抜けない。「これは、かなりおいしいマダイですよ!」と、船長がニコッとする。

高松沖の極上のマダイ。海上に浮かんでくるその姿を見ると、釣り人の本能が揺さぶられる。

 昔はマダイの餌でもあるエビが底引き網でたくさん獲れたが、一時は「エビが獲れなくなった」と言って廃業する漁師も増えている。しかし、瀬戸内海のマダイはエビだけでなく、アオガイも好んで食べるため型が良く、アオガイを食べていないときはイイダコやイカナゴなどを食べる。「エビが減った、餌が減った」と言われるが、何かしらのいい餌を探し食べてきた。最近はエビの好漁が続き、そのためかここ3~4年は、マダイの数がかなり増えていると石川船長は言う。
「マダイはイカナゴ漁が始まる12月になると、餌に見向きもしなくなります。そうなるとイカナゴに見立てたマダイサビキです。マダイサビキも一時期、かなり流行りました。そのあとは、鳴門・瀬戸内地区に伝わる伝統釣法“チョクリ仕掛け”です。マダイサビキがエダスのハリスの長さ40㎝に対し、チョクリ仕掛けは10㎝にした全長17mほどの8本針、短ハリス仕掛けです。

この日は釣果も上々。冬の潮に触れ脂がグンと乗った写真のような型がそろった。

 徳島でも南の方では昔、じいさんたちは玉ねぎの皮を干して、それを釣り針に刺して疑似餌にしたそうです。チョクリ仕掛けには、いろんな逸話があります」
 瀬戸内海でマダイ釣りの人気が出てきたのは、鯛ラバからだという。石川船長は初めて鯛ラバを見たとき、この仕掛けでマダイが釣れるとは思わなかったという。しかし「鯛ラバで釣ると、大きいマダイが釣れる」と評判になり、常連のお客さんも「船長、鯛ラバでやってもいいですか?」という声が増えてきた。石川船長自身は、初めこそ少し抵抗感もあったが、実際に鯛ラバで大物を釣るお客さんの姿を目の当たりにすると、それまでの考えを変えざるを得なかったという。
 その日は、船長の速いテンポでの移動が功を奏し、午前、午後とアタリは続いた。午後3時に納竿し、港に着き生け簀を覗けば、最大で60㎝、3人で17尾ほどの型ぞろいのマダイが元気に泳いでいる。

石川船長は鼻からワイヤーを通して神経締めを行う。死後硬直とその後の熟成から腐敗の過程がすぐ起きず鮮度劣化を遅らせる。「タイやヒラメは、これで通常の2倍はもつよ」と船長。

「おいしく持って帰るには、生け簀から上げたマダイをすぐに鉤状の道具を使って延髄を破壊します。この段階ではまだ心臓が動いていますから、続いてエラの大動脈と尾を切り、魚自身の心臓の動きを利用してすばやく血液を抜くのです。血抜きしてから神経締めです。神経締めは鼻の穴から細いワイヤーを何度も出し入れして、髄液を抜けば終了です。神経締めをして痙攣したマダイは、見た目に魚体が白くなります」。こうした活き締めの技術は、この地では昔からのもので、先輩漁師たちから教えられたと船長は言う。
 後日、マダイの活け締めの歴史について調べてみると、文献資料に明確に記されているのは、江戸時代初期。発祥は大阪だといわれている。
『雑喉場魚市場史(ざこばうおいちばし)―大阪の生魚流通』(酒井亮介著・成山堂書店)によれば、「1592~98年の天正・慶長年間の遺跡から60㎝大の鯛の骨が多数見つかっており、漁獲後に漁船の生け間に囲い、港の浮き生け簀で餌絶ちし、手鉤の一本〆で活〆にし、血抜きした真鯛を出荷することが行われていたらしい――」とある。
 また、『日本漁業史』(山口和夫著・東京大学出版会)によれば、元和2年(1616年)に大阪から江戸の本小田原町(現在の日本橋本町付近)に移り住んだ魚問屋・大和屋助五郎は、徳川家に大量のマダイを上納するため、釣れたマダイの腹部に竹の針を刺して浮き袋の空気を抜き、船の生け間で運び、沼津近辺を含む伊豆半島の18カ所に設けた各生け簀で畜養し、浦賀、神奈川、品川に設けた生け簀に移しながら運んだという。大阪で行われてきた生きたマダイの輸送技術を利用し、さらに大規模な流通ネットワークを築いて、大消費地である江戸の台所を賄ったのだ。そうした大規模流通が可能になったことで、マダイが庶民の口にも入りやすくなったのは言うまでもない。

釣り上げたマダイは、圧力の調整ができず死んでしまう場合が多い。そこで腹部に中空の針を刺して、浮き袋のエアーを抜いて生け簀に入れる。この技術は江戸時代以前に確立していた。

 船上で石川船長が行ったマダイの活け締めの方法は、文献では400年以上前から行われてきたことになるが、現実的には遥か昔からマダイが獲れる日本各地で行われてきたものと思われる。
「最近は、丁寧に魚を締める釣り人が増えました。餌釣りの時代に比べ、鯛ラバが普及したことでサイズも数も格段に良くなっています。お客さんが瀬戸内のマダイのおいしさに触れる機会も、グンと増えました。それは船頭として、ほんとにうれしいことです」と、石川船長は生け簀から取り出したマダイを見つめ、笑みを浮かべていた。

石川勝正(いしかわ かつまさ)

1952年愛媛県松山市生まれ。
運送会社の代表から釣り好きが高じて、漁師と渡船業に転身。その後、クロダイの掛かり釣りなどの延長で遊漁船を営むようになる。

【石川渡船・第一優勝丸】
http://ishikawa-tosen.o.oo7.jp/
090-3185-9158

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