2021
06.11
Vol.68 ③ 特集◎「天塩川原野行」番外編
―松浦武四郎の『天塩日誌』とチョウザメ―

日本有数の自然が残る天塩川流域

取材・文◎本誌編集部
語り◎鈴木邦輝
写真◎足立 聡

「松浦武四郎が石狩川・天塩川探査を終えた6年後に出版された『天塩日誌』を所蔵する『名寄市北国博物館』の気候区分は、日本海気候です。日本海側の気候が影響するといわれていますが、北のオホーツク海側の気候の影響もあり、夏に冷たいオホーツク海高気圧が発達すると、北見山地に霧がかかります。そのときは晴れていてもかなり寒くて、オホーツク海高気圧の寒気が山を越えてこちら側にも流れてきます。そういう夏は冷害になりやすいですね。太平洋高気圧が優位な時は、名寄(なよろ)は盆地なので30℃を越えて暑くなります。北と南、両方の影響を受けていると思います」
 今から175年ほど前に北海道探査を行った松浦武四郎研究の第一人者、鈴木邦輝さんは天塩川の上流から中流域にある北海道の名寄市は、北海道のなかでも独特の気候であると話す。特に上川郡比布町(ぴっぷちょう・旧石狩国)と上川郡和寒町(わっさむちょう・旧天塩国)の境にあり、天塩川水系と石狩川水系の分水界である「塩狩峠」を挟んだ気候は、両極端であるという。

11月上旬の天塩川。晩秋というより、すでに本格的な冬が訪れているようだ。

「塩狩峠は作家・三浦綾子さんの小説、映画化の舞台となった地域で、旅人は旭川側から塩狩峠を越えると『日本じゃなくなったようにと感じる』といわれます。人口密度も極端に少なくなりますし、音威子府(おといねっぷ)川水系の中川町や幌延町(ほろのべちょう)に行くと『完全に外国の風景だ』という感想をよく聞きます。
 通常、川下に行くにしたがって町が開けますが、天塩川は北に流れていく川なので、川下ほど厳しい環境になります。農業形態も大きく変わり、南側には水田があります。名寄市は水田の北限です、もっと川下に行くと畑作だけになります。最下流はサロベツ原野などの湿地帯が続き、畑作もできなくなり酪農だけです。天塩川を旅すると、そういう3つのタイプの農業形態を見ることができます」

「名寄市北国博物館」に展示されている天塩川の立体図。南東から北西へと流れ、日本海へ注いでいる。

 また、天塩川はかつて300km以上あったが、直線化により256kmになってしまった。直線化の影響は生物多様性や環境面でも問題はあるが、河口から約160 kmまで堰など川を横断する工作物が設置されておらず、コンクリートの護岸工事の実施箇所が少ない。そのため、自然のままの護岸が多く残されていることから、日本有数の自然環境が残っていると鈴木さんは言う。

『天塩日誌』に残された記録などから推測され、音威子府村筬島地区(おさしまちく)の天塩川流域の畔に、地元産トドマツを使用した全長5mの『北海道命名の地』碑が建てられている。

「松浦武四郎は、蛇行した川を丸木舟で遡上し、途中天塩川の支流、名寄川の源流へも到達し、徒歩と合わせ15 日間で天塩岳から流れ出す天塩川源流まで到達しています。そして、5日間で出発点に近い、現在のJR宗谷本線南幌内駅近くまで戻ってきています。
 地図で昔の流れを確認すると、何カ所も蛇行しているので移動距離が長くても、それほど前には進めないはずですが、それであの限られた日数で調査を終えたのですから驚異的です。
 しかも、筆で野帳といわれるフィールドノートに、絵と文字で克明にメモを取りながら遡上したのもすごいと思います。メモを記し、それを基に後から地図を作成して報告書に書き直した。すごい労力です。いつの時代も優秀なルポライターはいたと思いますが、武四郎の真似は、なかなかできないと思います」

武四郎の野帳と矢立のレプリカ。この野帳に筆で絵を描き、話を聞きながらメモを記し、それを基に後から地図を作成し、報告書に書き直したといわれている。

 天塩日誌には、松浦武四郎が探査した頃は、天塩川にチョウザメがかなり生息していたことも記されている。下流の中川町付近のニウブ川の近くの記述では「トイノタフ家がある。(エシユカ・家族8人)過ぎてトッホ(左岸)を上がると渕でちょうざめ(ユウベ)が群れをなしていたが、他の魚と異なって頭を船側(ふなたば)まで上げて集まって来るので、どうも気味が悪いものである。ここで五、六匹捕ってから……」(『天塩日誌』丸山道子訳)とあるほどだ。
「チョウザメが生息していたという記録は、天塩川だけでなく、石狩川と十勝川でも獲れたとされています。夏に遡上し産卵していましたが、イトウやサケのようにあまり上流へは行きません。天塩川でも、名寄付近までしか遡上していませんでした。

かなり上流部を記した絵図。「山々には未だ残雪があるようであるが、さすが季節は六月なので、あちこちから雷鳥が聞こえる。それで持参した一本のエナオの柄に歌一首を記して立てて山神に供えた。『身を神の おもいぞしける雷(いかづち)の とどろく雲の 上に宿りて』」(『天塩日誌』より)。

天塩川ではイトウを狙っていた釣り人が、過去にチョウザメを釣り上げた記録もあり、多い年は60匹ほども釣り上げられている。

 大きな魚ですから、肉や卵はアイヌの人々の食料になりましたが、鮫皮としてヤスリを作ったり、内臓は膠(にかわ)にしていました。大正時代まで幼魚が獲れていますし、6年前にも天塩川でチョウザメを釣り上げた人がいました。それは河口付近でしたから、汽水域で海と間違えて川を上ってきた個体だと思います。それがたまたまルアーに掛かったようです。かなり大きかったですね。
 産卵環境が整えば、また遡上してくる可能性はあります。現在の天塩川は直線化されてしまったところがあるのですが、淵があると産卵できるのです。私は北海道で天塩川が唯一、チョウザメが戻ってくる可能性がある川だと思っています」
 鈴木さんはチョウザメの研究者でもあり、名寄市とその周辺地域に関する自然、歴史、文化などの調査研究記録集、『北国研究集録』で「天塩川チョウザメ考」(鈴木邦輝著)を発表している。

天塩川は自然産卵のサケが多く遡上する。シーズンになると支流の小さな流れ込みも、びっしりサケでうまる。

天然記念物のオジロワシ。世界中に数千羽しかいないといわれているが。天塩川流域での生息数は多い。

こぼれ出たサケの卵。天塩川流域の多くの生き物がサケのよって命をつないでいる。

「天塩川は地元にとって財産です。さらに武四郎が残した探検の記録は、とても大きなロマンなのです。百数十年前に書かれた記録を現在の天塩川で、まだ確かめることができます。それを天塩川の新たな観光資源にしたいという人もいますし、この川にはそれだけのポテンシャルがあると思います。
 チョウザメはイトウ以上に自然環境に敏感な魚類です。そのチョウザメが天塩川に戻ってくるということは、多くの野生生物や私たち人間とっても本来の環境に戻ったことになります。それは私たちにとってかけがえのない希望だと思います」

松浦武四郎(まつうら たけしろう)
文化15(1818)年― 明治21(1888)年。現在の三重県松坂市に生まれ、江戸後期に医師であり儒学者の権威である山本亡羊より本草学を学び、幕末から明治にかけて探検家として活躍。とくに蝦夷地、樺太などの北方探査で大きな実績を上げ、「北加伊道(北海道)」の名前を考案。

鈴木邦輝(すずき くにてる)
1954年北海道下川町生まれ。名寄市北国博物館元館長。立命館大学文学部地理学科卒業。名寄市教育委員会部長などを経て、現在、名寄市史編纂を務める、松浦武四郎研究、天塩川のチョウザメ研究などを行っている。

その他の取材こぼれ話