2020
08.21
Vol.66 ① 巻頭インタビュー・根深 誠
「深山幽谷の奥に、天空の雪氷嶺ヒマラヤがあった」より(前編)

白神山地からヒマラヤ山脈まで釣り歩いた地球遊歩人

取材・文◎フィッシングカフェ編集部
写真◎足立 聡

 青森県・岩木山の麓、弘前市で生まれ育った根深誠さんは、白神山地で釣りを知り、高校時代に登山に目覚め明治大学に入学する。冒険家の故・植村直己の所属した山岳部に身を置くと登山への勢いは加速し、1973年以降ヒマラヤ山脈に通い続け、未踏峰6座に登頂する。
 一方で東北の狩猟民である“マタギ”の古老から自然の中での生き方を学び、地元白神山地の開発反対運動にも力を注ぎ、結果、世界自然遺産登録にも貢献した。
 そうした活動のなかで、幕末から明治期にかけて日本人僧侶として初めてチベットへの入国を果たした、河口彗海(かわぐちえかい)に注目し、ヒマラヤ山脈への潜入ルートを解明する。また、謎の動物“イエティ(雪男)”伝説の正体を発表するなど、活動の場は多岐にわたる。多忙でハードな旅のなかでも釣り竿はかたときも放さず、今でも時間があれば深山幽谷の渓で野営し、小さな焚火をおこして釣り歩くという。今号では、夢を追い続ける根深さんの釣りと自然観について、お話をうかがっている。

白神山地のイワナは2種類。白点の大きなアメマス系とニッコウイワナ系。笹内川はニッコウイワナ系がほとんどだった。

「その流れは見た目より力があるので、気をつけてください」と根深さんは、川を渡渉しようとするカメラマンに注意を促す。今回の取材は、根深さんが野鳥保護で尽力した白神岳に端を発し、日本海へと流れ込む笹内川(さざないがわ)で行われた。
 幼少から鍛えた釣りの腕はさすがだった。ここぞという場所で必ず23~26㎝ほどのイワナを釣り上げ、「今日の天気なら大物はここです」と餌を振り込むと、一発で尺イワナを釣り上げてしまう。青森県弘前市の生まれ育った家の裏には曲がりくねった川が流れ、物心ついたころにはフナやナマズを釣っていたという、その長いキャリアは伊達ではない。その日はわずか2時間ほどの釣りで、尺イワナを含め10尾近い釣果だった。

雨の中で火をおこす根深さん。自然の中で生き抜くために絶対に必要な技術、それは焚火だという。

「遊びといえば釣りでした。父親と一緒のときは、アユ釣りにも連れていってもらいましたから、小学校低学年でほとんどの川釣りを体験していました。そして、小学校高学年のときに初めて岩木山(1625m)に登頂し登山にもはまり、それ以降高校を卒業するまでに岩木山には100回以上登頂しています。私の登山人生の出発点は、岩木山です」
 根深さんにとって岩木山には、忘れられない出来事がある。秋田県立大館鳳鳴(ほうめい)高等学校生徒の遭難事件を通報したのが、根深さんたちだった。
「途中、山小屋で出会った鳳鳴高校の学生から、仲間が戻ってこないと聞き、私たちのグループが下山して警察に連絡しました。残念ながら山頂に向かった5人のうち1人が救助され、4人が遺体で発見されるという大事件になってしまいました。私たちは、遭難を通報したことで青森県警から表彰されましたが、我が校の校長は、騒ぎが大きくなって保身に走ったのでしょう。『危険だから冬山へは行くなと言っていたのに、(私を含め)あの生徒たちはそれを無視して行った』と、根も葉もない虚偽の発言をしたのです。それで私たちは停学処分です。
 ひどいことをする校長だな、と思いましたね。それで教師に対する不信感が募って、勉強をする気も一気に失せてしまいました。学業がおろそかになり、授業をさぼって狂ったように山に登りました。社会の矛盾というか、卑怯な大人からの心の傷を癒すには、登山しかなかったのだと思います」

尺イワナを手にしてにっこりと微笑む根深さん。魚は何度釣っても、二度と同じ感覚はない。魚の中の自然に気づくことは、自分自身の自然に気づくことでもあるという。

 根深さんは高校卒業後、明治大学に進学する。専攻は農学部だが、入学目的は体育会山岳部に入部するためだった。明大山岳部といえば、大正11(1922)年に創立して以来、数々の名クライマーを輩出した名門だ。また、ヒマラヤ等へ登山隊も派遣しており、数々の成果を挙げてきた。日本山岳会等の遠征にも多くの部員が選抜参加し、実績を残している。
 1970年、日本山岳会遠征隊の一員として世界最高峰のエベレストに日本人として初登頂し、同年に「世界初の五大陸最高峰登頂者」となり、1978年には、犬ぞり単独行として世界で初めて北極点に到達した植村直己は、根深さんの6歳年長の先輩にあたるという。
「大人になったらヒマラヤに行こう、というのが私の夢でした。そのために大学に行ったのだから、大学の授業にはほとんど出ていませんでした(笑)。
 明治大学は、2年生から3年生に進級するとき、決められた単位を取っていないと進級できないのです。山岳部で4年目を迎えたとき、私の学年は2年生でした。そして、私が山岳部で3年経ったときに、植村直己先輩が『アマゾン川6000㎞・単独筏(いかだ)下り』(1968年)から帰ってきました。植村さんは、翌々年の日本山岳会エベレスト遠征隊員でしたから、その準備を私たちが手伝いました。植村さんと2人で食料を細かくパッキングしていると、『根深、お前、外国の山に行きたくないのか?』、『行きたいです』、『だったら行けよ』と、いきなりそういう話になる。それが植村さんらしい、後輩へのやさしい気遣いでした。
 当時の日本山岳会のエベレスト登山隊は、明大山岳部出身者が多く、隊長もウチのOBでした。ですから順調に卒業すれば、私にもヒマラヤへの道が見えていたのです。しかし、その前に成績をなんとかしなければならなかった」

1981年、明治大学山岳部「炉辺会」の隊員として、エベレスト西陵から挑戦したときの根深さん。結果的には敗退となったが、第4次アタック隊が残すところ高度差100m弱の8750m地点まで迫った。このときもザックには、渓流用の振り出し竿を忍ばせていたという。

 根深さんは、4年間で2単位しか取っておらず、しかもその2単位は体育。体育会に入っている生徒は、授業に出なくても取れる単位だったという。実質単位はゼロ。自分でも情けなくなり、大学を辞めるつもりで弘前に帰ると、母親も病気気味で家業の材木商の景気も悪い。「とりあえず学校だけは卒業しろ」と父親に激励され、東京に戻って奮起したそうだ。当時は履修の上限がなく、2年間で卒業に必要な124単位を取り、そのうち3分の2が優だったというのだから、ものすごい集中力だ。
「卒業した年に、当時ダウラギリⅡ峰(7751m)が未踏峰でしたので、その下見を兼ねて、個人でネパールへ行ったのです。ところが現地に着いてA型肝炎を患い、寝込んでしまいました。東京に残った仲間が『あの野郎、行ったきり何の連絡もよこさない』と心配して、4人の偵察隊を出してくれたのです。隊長はなんと植村直己さんで、残りの3人も私の上級生でした。そのおかげもあって、ゆっくり歩けるくらいまで回復しました。偵察隊の人たちは『ばか野郎、もう帰れ!』と言うのですが、私は最初から帰るつもりがなかったし、飛行機の切符を買うお金もなかったのです。そうしたら植村さんが200ドル、残りの3人が100ドルずつで計500ドルをカンパしてくれて、それで帰ってこられました」

『ヒマラヤを釣る』著:根深誠(中公文庫)1999年刊
根深さんほどヒマラヤで釣りをした日本人は、いないのではないだろうか。とてもではないが「登山のついでの釣り」ではない。

 A型肝炎は自然治癒しか治療法がなく、その回復には1年以上を要したという。回復して以降は、1977年にヒマル・チェリ東尾根(7893m)、1981年にエベレスト西陵からの初登頂に挑む。そして、1988年にシャハーン・ドク(6320m)への初登頂を果たすなど、登山活動は精力的に続けられた。1984年には、アラスカ・マッキンリーで行方不明になった、先輩の植村直己の第2次捜索隊に参加している。
 さらにヒマラヤを取り巻く壮大な自然の神秘、そこに息づく伝統文化や人々の素朴な営み、宗教に導かれた伝説などにひかれ、持って生まれた強い好奇心の赴くままにチベット、インド、ネパール、パキスタンを放浪する。しかも、ザックには常に釣り竿を忍ばせてヒマラヤの峰々、その水辺で竿を出すことを忘れなかったという。

≪後編に続く≫

根深 誠(ねぶか まこと)
1947年青森県生まれ。明治大学卒業。登山家として1977年ヒマル・チュリ、1981年エベレストの登頂を目指すもともに失敗。1984年にはアラスカ・マッキンリーで行方不明になった山岳部先輩の植村直己の捜索に参加。1988年シャハーン・ドクに初登頂して以降、ヒマラヤの未踏峰6座の登頂を果たす。1992年から日本人僧侶・河口慧海のチベット潜入経路を調査。河口慧海のチベット潜入経路を辿った紀行文、『遥かなるチベット』(中央公論新社・1994年刊)で、第四回JTB紀行文学大賞受賞。白神山地の保護活動や世界遺産登録でも大きな役割を果たす。1994年から2003年までイエティの現地調査を行い、2012年その正体はチベットヒグマであるとの調査結果を発表し、大きな反響を呼んだ。著書に『みちのく源流行』『釣り浮雲』(ともにつり人社)、『風の瞑想ヒマラヤ』『ヒマラヤを釣る』『遥かなるチベット』『白神山地をゆく』(すべて中公文庫)、『チベットから来た男』(岩波書店)、『一竿有縁の渓』(七つ森書館)、『ヒマラヤにかける橋』(みすず書房)、『イエティ』『白神山地マタギ伝』(ともに山と渓谷社)、『渓流釣り礼讃』(中公文庫) 他多数。

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