2019
12.20
Vol.64 ① 開高健と銀山湖物語(前編)
特集「開高 健の釣りと旅」
「“悠々として釣り急いだ” 作家・開高健の珠玉しゅぎょくの釣り人生」番外編

「銀山湖畔の水は水の味がし、
木は木であり雨は雨であった」(『白いページ』潮出版)

取材・文◎フィッシングカフェ編集部 写真◎隈 良夫

 開高健が銀山湖(奥只見湖)を初めて訪れたのは、1970年5月。以後、開高健はこの湖と魚、湖畔の人々とさまざまな形で関わり、とくに縁が深いのが定宿としていた村杉小屋だ。今回、その村杉小屋でボートを借り、奥只見ダムの際を目指して走らせた。お盆を避け8月後半に訪れたのだが、早朝5時の時点で気温は30℃近くまで上昇。水しぶきを浴びるのを承知で走るボートから水面に触れると、思わず「ぬるい!」と口走ってしまった。
「ちょっと水温が高いですね、湖はあまり期待しない方がよさそうですね」と、サントリーの釣りクラブ『ルアー&フライ サントリーOPA!(オーパ!)』会長の佐々木洋三さんは、ボートを操船しながら声を上げる。

岬の先にアンカリングし、かけ上りのポイントで餌を落とす釣り人。この日は広い銀山湖でも釣りをする人は、ほとんど見かけなかった。

 佐々木さんが釣りクラブを発足したのは1988年。サントリー大阪本社の経営企画部に異動したことがきっかけだった。
「東京でも盛んに釣りをやっていました。当時、東京湾ではジギングでシーバスを釣るのが流行っていて、『あぁもう、あの釣りができなくなるな』と残念に思っていました。しかし、関西にも太平洋があり、日本海も近い。瀬戸内海もあります。兵庫県の山奥にはいい川もあり、関西は釣り場として、さらに豊かだということを知りました。
 そして『魚心あれば水心あり』で、山崎の蒸留所には釣り好きがたくさんいました。そういう愛好家は自然に集うもので、僕も一緒に釣りに行くようになったのです」
 集うメンバーの多くはOBである開高健が大好きで、本もよく読んでいた。あるとき、『かつて開高さんが勤めていた会社に、釣りクラブがないというのはおかしいね』という話になり、1988年の暮れに人事部に掛け合ったという。

今年、真夏の銀山湖では釣果がなかった。しかし、北ノ又川のインレットから上流には、小さいが再生産されたイワナがあふれていた。

「『釣りクラブを発足したい』と言ったのですが、『急に認めるわけにもいかないから、まず活動実績をレポートしてほしい』ということになりました。頼まれなくても毎週末釣りに行くような連中ですから、1989年12月に分厚いレポート提出し、活動が会社に正式に認められたのが、1989年12月の暮れでした。そして、同年12月9日が開高さんの命日です。開高さんが亡くなった後にできたクラブですが、『サントリーに釣りクラブが認められたことは、ある意味で開高さんの思いが実現したのかな』と解釈して、開高さんの代表作『オーパ!!』にちなんだ名前を付けました」
 そして、翌年1月12日のクラブ結成式と青山葬儀場で行われた開高健の本葬の日が同じだったという。日本が誇る天才作家であり、自分たちの会社の大先輩を天に送り出す日と釣りクラブが誕生した日が偶然にも重なった。その偶然の縁を大切にして「開高さんの釣り心に恥じないクラブにしよう」と、メンバーは開高さんの作品を全て読むこと、キャッチ&リリースを念頭にルアーフィッシングの可能性を広げることを目指したという。

「2020年で創設30年ですが、サントリーに釣りクラブができたことを知らないまま、開高さんが逝かれたことが残念でなりません」と、佐々木さんは言う。


 その思いをかみしめながら佐々木さんたち『OPA!』のメンバーは、トラウトフィッシングの他に瀬戸内海でブリ系のジギングやエギング、メバリングなど、開高健の開拓精神を引き継ぎ、新しい海のルアーを開拓してきた。また『OPA!』というクラブ名も、当時NPOだった「開高健記念会」より、正式な許可を得たという。
 そうした背景もあって、開高健所縁の銀山湖詣では、佐々木さんほかクラブのメンバーにとって特別なものであるという。

沈めても、浮かしても、何をしても魚の反応のない銀山湖だった。開高健がお盆帰りに訪れているようで、祈るような心境でキャスティングを繰り返した。

 佐々木さんが予想したように、残念ながらその日の銀山湖の魚たちは、水温の影響で避暑に入ったようだった。開高健流に言うと「湖が仮死した」状態だ。スプーンを深く沈めても反応はなく、時折、遠くで巨ゴイが大きく跳ねた。しかし、水面から立ち上がる荒沢岳の後方には越後駒ケ岳や八海山が控え、盛夏に色づく峰々の森は、南米の高地を彷彿とさせるほど見事な存在感があった。
「開高さんは『フィッシュ・オン』の最後に銀山湖を訪れ、この風景の中に世界の秘境釣りをビジョンしたのかもしれませんね」と、佐々木さんは言う。

うち上がった魚の死骸をついばむトビ。トビがハゲワシであるならば、まるでアマゾンの支流にいるような雰囲気だ。

 その日は午前11時過ぎまで、釣りというより開高健なら投げたであろうポイントへ、まるで挨拶というか祈るようにキャスティングを繰り返した。釣果はないのだが、不思議とすっきりした気分で昼前に納竿し、遊覧船乗り場裏手のボート置き場へ船を返し、村杉小屋名物の「開高めし」をおいしくいただいた。 「開高めし」とは、開高健が村杉小屋で3カ月間、長期滞在している際に好んで食べた、山菜を具材にした焼き飯だ。滞在中、村杉小屋の主人が少ない山の食材で炒めたご飯を出したところ「これは商品になるぞ」と開高健が言い、紅ショウガや油を多く使わないなど、開高健のアドバイスを参考に完成したという逸品だ。
 今では新潟県魚沼市推奨の「開高めし・開高めし弁当」なども販売されおり、銀山湖から魚沼市に抜ける国道沿いには「“開高めし”あります」と、のぼりを掲げるドライブインを何件も見かけるほどだ。

開高健が村杉小屋で滞在している際、好んで食べたのが、この山菜焼き飯こと「開高めし」。あっさりとした醤油だしに、山菜の苦みとみずみずしさがマッチした大人の味。一度食べたらやみつきになる。

「2000年に『OPA!』設立10周年を記念して、有志が集まり銀山湖に来たことがあります。そのときも昼食に『開高めし』をいただきました。村杉小屋の初代主人、佐藤進さんをお招きして、さらに佐藤さんから

『高橋名人は開高さんと一番多く一緒に釣りをした人だから、ぜひ高橋さんも呼んでほしい』という要望があり、高橋さんにも来ていただくことになりました。高橋さんは当時80歳代半ばで、ムスッとしてニコリともしない方でした。『ずいぶん怖い人が来たな』と思いましたね」と、佐々木さんは当時を振り返る。

5月下旬から11月初旬まで、銀山湖では奥只見遊覧船が運航している。季節ごとに移り変わる湖や山々の景色を楽しみながら、ポイント探しに乗船するのも楽しい。

 奥只見ダムから只見川を数キロ下ると、大鳥ダムがある。ダム下は放水時にダムから落ちるたくさんのワカサギを狙って、大イワナが大挙するポイントだ。放水のタイミングとルアーの選択がピタリと合えば、大釣りできるという。高橋名人にその魚拓をさんざん見せつけられた開高健は、秘密のルアーを知りたくて、高橋名人の自宅まで出かけ懇願する。しかし、名人は頑として秘密を明かさず、作品の中で当初「先生」「名人」と呼んでいた呼び名が「鬼」に変わったというエピソードの人物だ。
 それから25年ほど経過した2000年に、佐々木さんが開高健と同じように高橋名人にどんなルアーだったのかを尋ねると、高橋名人は口をへの字に結んだまま5分くらい黙り込んでしまって、結局教えてくれなかったという。そして一言、「男は、別れた女と釣れるルアーのことは、人に言わないもんだ」と、名言を残したそうだ。
 その秘密のルアーを佐々木さんは、「よく曲がる」と書いてあるので鉄ではなく、28gの鉛のスティングシルダ(イワシなどを模したメタルジグ)ではないかと推測している。

かつての村杉小屋の前で記念撮影する開高健。この宿には、ここを訪れた人それぞれの思いが刻まれている。

 銀山湖を訪れ、村杉小屋に泊まった釣り人たちは、作品の記憶や多くのエピソードに触れることで、まるで開高健と一緒に釣りをしているような錯覚を覚える。開高健は皮肉を込めて「釣り師には、過去と未来があって現在がない」と語ったが、ここでは「遠い昔も未来もすべて含めて、今ここに開高健と共にある」という感覚になるのだ。
「釣り人にとって釣果は大切です。でも、それ以上の何かが銀山湖にはあります。それを教えてくれたのが開高さんです。僕らのクラブの銀山湖詣でも、当分続きそうです」と、佐々木さんは言う。

佐々木洋三(ささきひろみ) 1955年生まれ。『ルアー&フライ サントリー OPA!』会長。シマノアドバイザー。1981年サントリー㈱入社後、マーケティング部門や経営企画部、社長室などを経て、現在、同社秘書室より出向し『関西・大阪21世紀協会』専務理事を務める。「’17食博覧会・大阪」総合監修、関西元気文化圏推進協議会幹事、平成OSAKA天の川伝説実行委員会副委員長などの他、㈱シマノのアドバイザーを務め、鯛ラバ(疑似餌釣法)の第一人者。鯛ラバの他にもインチクやエギといった『漁具』を用いた釣りを研究し、漁具のもつ歴史的価値とその可能性を実証している。

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