2021
03.26
Vol.67 ⑤ 特別企画◎ アーサー・ビナードの釣りと旅
「僕らの知恵が果てるまで」より

An Education in Fishing and Friendship
斜里岳の小川で、釣り語り合う

取材・文◎本誌編集部
写真◎足立 聡

 詩人でエッセイストのアーサー・ビナードさんは、アメリカ・ミシガン州生まれ。自分の周りにいる人々は、釣りをあたりまえに嗜む環境で育った。日本語を大切にしながら文章を書くことは大好きな仕事だが、仕事に追われてたくさんの言葉に囲まれすぎると、ときどき方向を見失うことがあるという。そんなときの特効薬は、深い自然の中で釣り竿を握り、極めてシンプルな暮らしの中で時間を過ごす釣り旅だという。

アーサーさんの大好きな「サクラの滝」。7~8月にかけて産卵のためにオホーツク海から斜里川を遡上するサクラマスが、勢いよくジャンプするのが見られる。

 今回、アーサーさんが訪ねたのは、北海道道東・斜里岳の麓。そこには友人で彫刻家の金兵直幸(かなひょうなおゆき)さんの電気もガスも水道もない、自給自足的なアトリエがある。近くには名所「サクラの滝」があり、7~8月にかけて産卵のためにオホーツク海から斜里川を遡上するサクラマスが、勢いよくジャンプする姿が見られるという。その斜里川でアーサーさんと金兵さんは、オショロコマやヤマメを相手にロッドを振った。
「1年ぶりなので、自分が落としたい場所に毛鉤が落ちなくて最初は苦戦しましたが、ここの魚は優しいから、少々ずれてもちゃんと針に掛かってくれました」とアーサーさんは、小ぶりだが太ったヤマメを嬉しそうにリリースした。

写真は金兵直幸さん。初めての釣り、しかも初めてのフライフィッシングで魚を手にする人は、そう多くはないだろう。

 彫刻家である金兵さんは、小学校1年生まで斜里町に住み、その後、津別町に引っ越した。周囲には津別川や常呂川(ところがわ)など、釣り人を唸らせるような河川に囲まれて育ったにもかかわらず、釣りはほとんど経験しなかったという。
「釣り好きからすると、斜里小学校に通って釣りをしなかった男の子は、天然記念物級かもしれないですね。それなのに山菜を探すのは、熊よりも上手だというから面白い」とアーサーさんは感心する。
 その天然記念物級の金兵さんが、今回初めてフライロッドを握った。アーサーさんからわずかな時間だけキャスティングのレッスンを受け、そのまま川に足を踏み入れて流れにフライを落とすと、なんと1投目で朱点の美しいオショロコマ釣り上げてしまったのだ。
「子どもの頃から、静かな流れの川に惹かれていました。知床方面にもすごく静かで、いい川がありますし、湧き水もいいですね。釣りはしないのですがどういうわけか、そういった水の流れがすごく好きなのです。夏になると運動靴のまま小さな川に入り、川通しで上流まで上ったりして、釣りもしないのに1日中、川の近くで過ごすことも多かったですね」と金兵さん。

長雨で斜里川上流の流れは、太く強い。アーサーさんは滑りやすい河床に注意を払い、釣りが初めてだという金兵さんのフライを付け替えながら釣り上がる。

 金兵さんの川歩きに不安な様子はなく、苔がつき滑りやすい斜里川をすたすたと横切るその姿は、むしろベテランの渓流釣り師に近い。詳しく聞けば金兵家では大切な食料採取として春から夏にかけて、沢沿いの山菜を摘むための川歩きは、ごく日常のことだという。
「これからは、山菜採りには釣り竿持参ですね。この斜里川で育まれた魚を大切に、少しだけいただきたいと思います。川の命のたすきリレーです」と金兵さん。

この日の斜里川の魚たちは優しく、久々にフライロッドを握ったアーサーさん、初めて釣りをする金兵さんの毛鉤に果敢にアタック。写真はオショロコマとパーマークが大きく鮮やかなヤマメ。

 午前10時から午後3時まで釣りを楽しんだアーサーさんと金兵さんは、釧路駅と網走駅を結ぶ釧網本線(せんもうほんせん)・緑駅近くのアトリエに戻ると、井戸で水をくみ、明るすぎないランプの灯りの下で夕食を作りだした。
 金兵さんは高校卒業後、日本を代表する彫刻家の小畠廣志(こばたけひろし)氏が主宰する彫刻の専門学校に通い23歳で卒業。その後、イタリア、ドイツ、フランス、ポーランドなど、ヨーロッパ各地と日本を行き来しながら作家活動を続ける。その後、「とにかく水がきれいなところに住みたい」と、生まれ故郷でもある北海道に創作活動の拠点を移し、この自給自足的アトリエを造った。

斜里川で存分に楽しんだ二人は、電気もガスも水道も引かれていない、金兵さんのアトリエへ移動。もともとは国有林に植林をするため、トドマツの苗床畑で作業する人々が寝泊まりしていた建物を改装した。外観は昔のままだが内側から柱を補強し、内断熱構造になっている。すべて金兵さんのDIYだ。

 金兵さんの作品テーマの一つに水の循環がある。川から海へ流れた水が蒸発し、また雨になって山に戻ってくるという循環、その一部として自分もあるというものだ。この地にアトリエを移したことで、そうした気づきを確かめられたという。
「ここは国有林に植林をするためのトドマツの苗床畑で、作業人が寝泊まりをする建物でした。現在はアトリエとして使用していますが、フランスから戻った後、ここ斜里郡清里町には9年間住んでいました。『たまには電気を引かない人間がいてもいいか』思って、電気のない生活を続け、本当に必要なときは発電機を回しました。
 井戸も掘りました。冷たくておいしい水で、摩周湖の伏流水だといわれています。軟水だからコーヒーやお茶をいれると味が引き立ちます。指先で触ると少しヌルッとした感触があって、クラスターが細かいことがよくわかります」と金兵さん。

「僕らは工業製品で成り立つ便利な生活に慣れてしまったけれど、昔の人は土や植物、鉄をじかに触って日常で使う道具を作っていた。だから100年前の人たちは、今よりはるかに彫刻家的な生活をしていたのではないかな」(アーサー・ビナード)

 アーサーさんが金兵さんのアトリエを訪れたのは、今回で2度目。釣りも含め周囲の自然を改めて見渡すと、金兵さんがここに住んでいるのは、故郷だからとか土地勘があるということよりも「この土地に呼ばれているのではないか?」と感じたという。
「絵画は目で見て楽しむから、わかりやすいですよね。音楽は耳で楽しむし、舞踏も僕がやっている言葉の芸術も、わかりやすいと思うのです。だけど彫刻は、立体を作るでしょう。見てもいいし、触ってもいいし、叱られるかもしれないけど乗っかってもいい。そして、金兵さんの作品も含めて、力のある彫刻は『場』を変える力があるのだと思うのです」
 アーサーさんはそう話すと、イギリスのストーンヘンジのような巨石文明も、斜里町にある縄文後期にできたといわれる朱円(しゅえん)のストーンサークルも大地の彫刻と考えれば、自然の中の「場」というか「気」を変える巨大な装置のようだと。そして、金兵さんがこの建物で創作活動することは、トドマツの元苗床畑を取り巻く森、そこに住む動物たちに都合がよいように感じる。そう考えると彫刻は、かなり面白い芸術だと言う。

アトリエの前で、オホーツク海から遡上するサケのオブジェを制作するために描いたスケッチを持つ金兵さん。

「作品と周囲に何らかの関係ができたとき、それによって自分自身も変化することがあります。言葉ではなかなか表現しづらいのですが、自分が一段階違うレベルに入ったというか、昨日までの自分とは何かが変わった感じがするのです。
 今回、アーサーさんに釣りを教えてもらい、手ごたえを感じました。その手ごたえが創作面なのか人生に対するものなのか、具体的に何かはまだわからないのですが、竿を握り気配を殺し、周囲の自然と同調する。そして、命と直接触れる『釣り』は、自分にとって未来の風景を変えてくれるような予感がするのです」と金兵さんは言う。

写真右)
金兵直幸(かなひょう なおゆき)
彫刻家
1966年北海道生まれ。高校卒業後、彫刻家を目指し「KOBATAKE工房」に学び、1986年から国内、1998年から国内およびヨーロッパでグループ展や個展、シンポジウムやスタジオショーなどの出展活動、リーゾートホテルとのコラボ作品の制作なども行っている。

写真左)
アーサー・ビナード Arther Binard
詩人・エッセイスト
1967年アメリカ・ミシガン州生まれ。コルゲート大学英米文学部卒業。2001年、詩集『釣り上げては』(思潮社)で中原中也賞受賞。2005年エッセイ『日本語ぽこりぽこり』(小学館)で講談社エッセイ賞受賞。2007年絵本『ここが家だ ベンシャーンの第五福竜丸』(集英社)で日本絵本賞受賞。2008年詩集『左右の安全』(集英社)で山本健吉文学賞(詩部門)受賞。2012年ひろしま文化振興財団、第33回広島文化賞(個人の部)受賞。2013年絵本『さがしています』(童心社)で第44回講談社出版文化賞絵本賞、第60回産経児童出版文化賞ニッポン放送賞受賞、2017年第6回早稲田大学坪内逍遙大賞奨励賞受賞。2018年絵本『ドームがたり』(玉川大学出版部)で第23回日本絵本賞受賞。

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