2020
05.29
Vol.65 ② 特集◎トーマス・ブレークモアの遺産
― 日本のフライフィッシングの礎を築いた『養沢毛鉤専用釣場』―より

山間の養沢集落を流れる清流に惹かれて

取材・文◎錦織則政(西洋釣魚史研究家)、フィッシングカフェ編集部 
写真◎知来 要 取材協力◎「トーマス・ブレークモア記念社団」

 関東平野を扇状に走る圏央道のあきる野インターチェンジを降りると、東京都多摩地域西部を流れる、多摩川水系最大の支流といわれる秋川の河原が広がっている。その秋川に沿うように檜原街道を西へ進むと、周囲は小高い山に覆われ谷が深くなり、この地が関東平野の縁であることがわかる。そして、秋川渓谷の手前、十里木(じゅうりぎ)の交差点付近で秋川に流れ込む養沢川沿いに北上すると、四方を山に囲まれた小規模だが風情のある街道風景となる。

養沢集落の人々の息づかいと、川への真心を感じながらキャスティングできるのが『養沢毛鉤専用釣場』よいところだ。

 川の中に点在する岩、その岩に張りつく苔。河畔には植林された杉ばかりでなく、新緑の春や紅葉の秋を彩る落葉樹が枝葉を伸ばし、その下で低く伏せるような日本家屋が点在する。養沢川流域の景観は、数百年にも及ぶ人と自然の営みによって創りあげられたものだ。
 その景色を目にすると、今から65年前、アメリカ人の法律家でありGHQ法務課に所属していたトーマス・レスター・ブレークモア(Thomas Lester Blakemore)が、この地に毛鉤専用の釣り場を開業しようとした理由が、手に取るようにわかる。

管理事務所内には、ブレークモアが使用していたランディングネットと魚籠の他に愛用したフライも額に収められ飾られている。

トーマス・レスター・ブレークモアは、1915年8月26日、米国オクラホマ州の弁護士の家庭に生まれ、幼少期は父親の影響でフィッシングや狩猟などを通して自然に親しみながら育ったという。1938年に奨学金を得て英国ケンブリッジ大学に留学し、その翌年に来日すると東京帝國大学で日本語、日本法を学ぶが、1941年の真珠湾攻撃の直前に帰国。しかし、礼儀正しく親切心溢れる当時の日本人の姿に心底感銘を受けた彼にとって、日本での2年間の暮らしは、かけがえのない思い出となっていた。
 そして、戦後の1945年にブレークモアは再び来日し、翌年にはGHQの法務部に所属する。GHQの中で唯一、日本法を理解し日本の将来を心から案ずる者として、日米双方の仲介役を誠実に務め続け、日本の民法刑事訴訟法の改正立法に携わった。
 このGHQ時代の3年間は、ブレークモアの将来を決定した時期でもあった。公務として日本各地を視察し、その際に魚類や野生動物の生態などを目にして、日本の豊かな自然に感動する一方で、戦後の荒廃した国土の中で貴重な鱒が乱獲され、増殖努力も進められていないことに心を痛めた。そんなときに出会ったのが、養沢(ようざわ)の集落を縫って流れる美しい小渓であったという。

約4kmの自然河川を利用した釣り場は、瀬の開き、深場のプール、堰堤下など釣り上がるにつれ、さまざまな変化が楽しめる。定期的にニジマスとヤマメを放流しているほか、養沢で生まれ育ったニジマス、ヤマメ、イワナ、ブラウン、ブルックも生息している。また、もともと養沢川に生息していたウグイ、アブラハヤ、カジカなども、たくさんいるという。

 御岳山(みたけさん)近辺に源を発する養沢川は、流程およそ14km。かつては川の水を用いて障子用の和紙が生産されたというほど、流れは清冽で安定している。渓の要所は集落が営まれ、人々はその穏やかな川に寄り添いながら暮らしてきた。
 あるとき狩猟中のブレークモアが養沢川を訪れたところ、ひと目で養沢川に惚れ込んでしまい、毛鉤釣り専用の釣り場を開設せんと思い立ったのである。この背景には、養沢川の流れが彼の理想像に近かったこともあろうが、特別な事情もあった。このとき、秋川渓谷の周囲には横田や立川の米軍基地がいくつか点在しており、身近な場所に将校用のレクリエーション施設が求められていたのである。

晩年のブレークモアと妻のフランセス。日本での永住権を得て、その功績がたたえられ1987年には勲三等瑞宝章が授与された。

 本格的な鱒釣り場の開設には、地元の協力が欠かせない。ブレークモアは私財を提供したうえで、知己の堀田正昭元駐イタリア日本大使や戦後の我が国のルアー・フライフィッシング界を牽引した鈴木魚心氏。そして秋川漁協や秋川釣友会などの協力を得て、1955年1月に(財)五日市養鱒協会を設立し、同年6月に同協会が養沢川の本須ダムから上流5.5km区間に『養沢毛鉤専用釣場』を開設した。まさに東京フライフィッシングの幕開けである。
 晩年のブレークモアは日本の永住権を得て、1987 年には勲三等瑞宝章の叙勲も受けたが、1988年妻の療養と自身の入院手術のため、やむなく日本を離れた。米国シアトルで静かな余生を過ごしたのち、1994年2月19日に急性心不全のため逝去。離日後に再び戻ってくる夢は叶わなかったが、彼が撒いたフライフィッシング文化の種は、東京都西端の地にしっかりと根を下ろし、今も養沢川の畔で咲き誇っている。

『養沢毛鉤専用釣場』の運営母体は、「トーマス・ブレークモア記念社団」。その前理事長を務めていた吉沢裕司氏。「鱒釣り場ができてから、この集落は何事も団結する力が生まれました。それもブレークモアさんの遺産ではないでしょうか」と言う。

 現在『養沢毛鉤専用釣場』は、地元住民が理事に就任する「トーマス・ブレークモア記念社団」により運営されている。
「釣り場を始める際、ブレークモアさんから『地元の人がやりなさい』と言われ、売り上げの一部を地元に還元することを前提に、早い時点で地元が養鱒協会から運営権を引き継ぎました。やはり漁協の協力が不可欠なので、今では川を漁協から借りる形で運営し、売り上げの1割を漁協に、もう1割を地元自治会に譲り渡しています。残りの8割で釣り場を運営していますが、全役員が無報酬でやっていることもあり、積立金は増えています。
 いろいろと大変な問題も起きましたが、養沢の住民は何か事が起これば一致団結してきたんです。それが強みだと思います。また、奥まった地域に住んでいるものの、養沢の住民には不思議と外の人を怖がらずに話しかけることのできる、人なつっこいところがあります。それで街の釣り人も、入って来やすいのではないでしょうか」と、先代の理事長を務めた吉沢裕司氏は言う。

『養沢毛鉤専用釣場』にあるブレークモア碑。東京渋谷駅にある「忠犬ハチ公像」(2代目)の製作者として知られる、彫刻家の安藤士氏の作品。そこには「貴殿は当養沢川を初めて毛鉤専用つり場として フライ・フィッシングエリヤを開設しました。 その功績をたたえて、ここに記念碑をつくります」とある。

 2019年秋の台風19号では、他の多くの河川と同じく、養沢川でも上流部の採石場から流出した土砂によって河床が浅くなるなど、甚大な被害があったという。しかし、一年を通した渓魚の保全活動は絶えることなく行われ、秋になると落葉した葉が川底に堆積し、多くの渓流魚の餌となる水生昆虫育む広葉樹の植林活動、流域の河川清掃活動。シーズンオフには流れに竹を伏せ、鳥害や密猟から魚を守る取り組み、ヤマメの人工産卵場の造成、稚魚放流なども行っている。ブレークモアが半世紀以上も前に描いたビジョンを、養沢の人々は今なお大切に守り続けているのだ。

Thomas Lester Blakemore
(トーマス・レスター・ブレークモア)

1915-1994年。米国オクラホマ州生まれ。法律家。幼少期に父親からフライフィッシングを学び、狩猟の腕も磨く。法律家を志し戦後、GHQ(連合国軍総司令部)のリーガル・セクション(法務課)に所属し3年間、公式の視察で日本国内の隅々を旅する。その間、公務とは別に鱒やその他の魚、日本の野生生物の生態について理解を深め、日本の渓流魚の貧困さに憂慮し、渓流魚の養魚・ふ化を念頭に1995年6月1日、私財を投じて『養沢毛鉤専用釣場』をオープンする。

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