2016
07.29
Vol.53 後篇 The Char which does Strange illusion
特集『岩魚変幻』変容するイワナの謎「南限のドリーバーデン」より

オショロコマの変異性に心を奪われた釣り人

文◎本誌編集部 写真◎長谷川雅弘 画◎浩而魅諭(ひろじみゆ)

 北海道に広く分布するオショロコマは、北太平洋地域を代表するイワナ属であるマルマの南限に位置する魚だ。冷水を好み一部降海型が見られるが、その多くは寒冷な北海道のなかでも源流に生息している。そのため地域個体差の特徴が多くみられ、河川ごとに様々なバリエーションを見ることができる。
 そうしたオショロコマの変異性に興味を持ち、水中ハウジングに収めた一眼レフカメラを片手にウエットスーツに身を包み、北海道の数多くのオショロコマ生息河川の調査や観察を行っているのが、長谷川雅弘さんだ。
 長谷川さんは観察や調査・研究を重ねていくことで、オショロコマに対してある種の愛情に似た感覚も芽生えたという。しかも自身の事務所の屋号をオショロコマの学名である「マルマ」とし、バリバリのフライフィッシャーマンであるにもかかわらず、“オショロコマの前では竿を置く”という徹底ぶりだ。
「オショロコマに出会ったきっかけは、幼少時に祖母の家がある北海道のニセコ町の近くの羊蹄山の麓の町、真狩村でかなりの時間を過ごした経験からです。オショロコマの生息河川として今でも有名な真狩川ですが、当時はものすごい数がいて、僕にとって初めて触れた渓魚でした。華奢な魚体に小さなスポットが散りばめられ、子供心に『他の魚とは違う』という、何か特別な魚を見つけた印象でした」と長谷川さんは言う。
 その幼少時の出会いの衝撃は、40数年が経過した今でも鮮明に思い出すことができ、以来、オショロコマは長谷川さんにとって最もプライオリティの高い魚だという。そして、この美しい魚に最上級の愛情を込めて、長谷川さんは“コマ”と呼ぶ。

「大好きな釣りだが、オショロコマに関しては竿を持たない」と長谷川さん。かなり偏愛しているようだが、地元の方が愛する理由こそが、オショロコマの魅力なのかもしれない。

「大好きな釣りだが、オショロコマに関しては竿を持たない」と長谷川さん。かなり偏愛しているようだが、地元の方が愛する理由こそが、オショロコマの魅力なのかもしれない。

 現在、長谷川さんは、生物多様性の視点から自然環境調査・設計提案を行っており、そうした活動の他に、文筆活動や生物写真家としても活躍している。また、専門学校で環境教育の教鞭をとるなど多忙な毎日だが、数多くの自然報道番組の制作にも従事しており、水中撮影機材を担いで川に出向くことも多いという。
 その長谷川さんがオショロコマを釣りの対象魚として外したのは、そうした経験が積み重なるなかからだったという。そして、仕事を通じて北海道内の生息河川をめぐり、オショロコマの定量的なデータや自身で撮影した多くの水中写真を分析する中で、河川ごとの変異性が著しく強いことに気づいたという。
「オショロコマ(Salvelinus malma)は、北部太平洋沿岸に広く分布するサケ科イワナ属の一大勢力です。基亜種は、北米に生息するドリーバーデン(Salvelinus malma malma)で、北海道に生息するオショロコマもかつては、これと同種とされていました。しかしつい最近、分類学上の位置づけが変わり、亜種(S.m.krascheninnikovi)とされるようになりましたが、オショロコマは極めて冷水性の魚です。国内での生息は北海道に限られており、それはこの種の魚の世界分布における南限が北海道ということです。
 北海道よりさらに北方の国々では、降海型が多く見られるものの、道内では知床半島の一部の例外を除いて、高山地帯の清冽な渓流や年間を通じて水温が低く保たれている湧水河川でしか生きることができません。

体側に散りばめられたスポットは、ホワイトからクリーム系と朱系の2種類。ただしその色合いや散布パターン、パーマークの出かたなどは、局所集団内または個体レベルで多くのバリエーションを持つという。同属のアメマスにも着色斑を持つものがいるが、スポットはずっと小さく、背びれの虫食い状斑もより不鮮明だ。

体側に散りばめられたスポットは、ホワイトからクリーム系と朱系の2種類。ただしその色合いや散布パターン、パーマークの出かたなどは、局所集団内または個体レベルで多くのバリエーションを持つという。同属のアメマスにも着色斑を持つものがいるが、スポットはずっと小さく、背びれの虫食い状斑もより不鮮明だ。

 成長速度は遅く、成熟年齢は棲む河川の水温によって変わります。しかも、成魚の体長はせいぜい20cm程度です。河川内で30cmを超えるものは、大物といえます。知床半島沿岸河川などでは、まれに回帰遡上する降海型を見ることがありますが、カラフトマスに混じって泳ぐ50cmに迫る巨体は風格にあふれ、とにかく圧巻です。
 こういった生息環境からもわかるように、先ほども言いましたがオショロコマは、極めて冷水域を好みます。この冷水性が河川ごとの著しい変異性につながるのです」
 オショロコマにとって餌資源はもちろんのこと、生息場所となる不可欠な条件は、夏場の最高水温が16℃を超えないことだという。日本では北に位置する北海道といえども、ヤマメやニジマスの釣り場となる河川は、夏場には容易に水温20℃を超えてしまう。そうなるとオショロコマの生息条件である夏季水温16℃以下の場所は、かなり山奥の支流か常に冷たい湧水に守られている場所に限られ、そういった閉鎖的な環境のなかで、局所的なグループを形成しながら生きているという。

オショロコマは森の魚。シマフクロウの命を支えているのも、実はオショロコマ。優しく接すれば、優しく寄り添ってくれるような魚だという。

オショロコマは森の魚。シマフクロウの命を支えているのも、実はオショロコマ。優しく接すれば、優しく寄り添ってくれるような魚だという。

「水温障壁による分布流域の断片化といった現象は、コマの遺伝的な変異の発生を促す要因となると思います。北海道が世界分布の南限であり、特にその辺縁部では遺伝形質の均一化が発生しやすい条件にあるということです。局所集団の縮小による遺伝子ボトルネックや創始者効果といった現象の発生可能性が高まるわけです。遺伝的隔離が外見上の差異に現れるかどうかを定量的に検証する資料は少なく、それはこれからの課題です。でも百花繚乱ともいえるようなコマの斑紋の多様性を見ていると、極めて閉塞的な環境に追いやられたことと、大いに関係があると思います」
 そういった変異性のほかにオショロコマには、分布境界ラインに存在するゆえの儚さも秘めており、近年では、水温上昇による生息域の縮小も見られるようになった。大きな原因は、地球規模の気候変動による温暖化や河川を横断する工作物設置による停滞水、河畔林消失などの複合的なものだ。また、オショロコマが勢力を失いつつある流域を見ると、在来のアメマスは仕方がないが、外来種が幅を利かせはじめて衰退に拍車をかけていると長谷川さんは言う。

知床の河川に回帰遡上した降海型のオショロコマ。

知床の河川に回帰遡上した降海型のオショロコマ。

 世界分布の南限である北海道のオショロコマが、どこよりも早く消滅するリスクを背負っているという現状を受けて、環境省はオショロコマをレッドリストの絶滅危惧Ⅱ類(VU)に指定した。
「水温上昇に伴うコマの危機は、特定の年齢の個体だけが生息し、それ以外の年齢の魚が櫛の歯が欠けるように消失する現象からもわかります。欠落する魚は特に幼魚層に多く、近年の繁殖や世代交代が壊滅的な状況だということを示しています。偏った年齢の個体しか釣れない川は、しばらく休ませるような配慮が必要でしょう」
 羊蹄山に降った雨が伏流し、山麓からにじみ出て真狩川の上流で清流となって湧き出る。その清流は豊かな河畔林の間を流れ、冷たく澄み渡り、あらゆる動物や植物がその恩恵にあずかっている。そうした森羅万象の生命のなかで、長谷川さんにとってオショロコマは、最も光輝く存在だったのだ。

北海道道南の後志(しりべし)の河川で撮影した、色彩の派手な湧水河川の個体。

北海道道南の後志(しりべし)の河川で撮影した、色彩の派手な湧水河川の個体。

 そして、水中でカメラのファインダーから水面越しに森をのぞくようになると、アイヌの人々が“コタンクルカムイ”と崇めたシマフクロウが樹上からオショロコマを見つめているような錯覚を覚えたという。そして、オショロコマは森と水をつなぐ使者であり、森の生命力の化身なのだ、と感じるようになったという。
 長谷川さんは最後に「コマの魅力と置かれた現状を、しっかりと認識してほしいと思います。幸いなことに、昔と変わらずコマが溢れる川は、まだわずかに残っています。そして、貴重な魚とずっと遊べるような釣りをしてほしい」と語ってくれた。

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