2021
07.09
Vol.68 ④ 特集◎「天塩川原野行」より
―砂澤ビッキ『天地を紡ぎ、生命の風を彫った彫刻家』―

天塩川流域の町、音威子府で生み出されたモダンアート

取材・文◎ 本誌編集部
語り◎ 河上 實
写真◎ 甲斐敬章(砂澤ビッキ写真)、足立 聡(作品写真他)

 北見山地天塩(てしお)岳の1330m付近を源に流れ出る天塩川は、美しい渓谷が広がる山間部を下り、ポンテシオ湖、岩尾内(いわおない)湖、岩尾内ダムを経て、稲作の北限地帯である中流域の名寄(なよろ)盆地に入る。そこからほぼ真北へと下り、チョウザメやサケの養殖業が営まれる美深(びふか)町を抜け、河口から約80km上流地点で進路を西向きに変え、日本海へと下る。その進路を急に変える起点が、
 中川郡音威子府(おといねっぷ)村だ。
 アイヌの両親のもとに生まれ、自然や生命を主題に独創的な活動を続けた彫刻家・砂澤ビッキが、この音威子府村に移住したのは、昭和53(1978)年だった。

北海道で一番人口の少ない村、音威子府村。悠久の流れを今に残し、大自然の中で釣りが楽しめる天塩川に架かる筬島大橋(おあさしまおおはし)の向こうに、通称・筬島という集落がある。1978年、現代彫刻家の砂澤ビッキは、この土地の豊かな自然に魅せられ移り住んできた。

 音威子府村は、直線にして東西約50kmでオホーツク海と日本海に達することから海洋性気候に属し、四方を山の囲まれた盆地的地形のため寒暖の差が激しく、12月から3月の平均気温はマイナス6℃以下。極寒期にはマイナス30℃以下になることもある。ビッキがこの村に移住した11月は、東京の気候でいえば真冬、厳冬並みの気温である。その同じ11月中旬に音威子府村筬島(おさしま)にある、ビッキのかつてのアトリエ「アトリエ3モア」、現在の「砂澤ビッキ記念館」を訪ねた。

2004年にビッキの元アトリエを改装して造られた『砂澤ビッキ記念館』。なかには小さなノミから巨大なアックスやチェーンソーまで、ビッキが生前使った道具が展示されている。

使い込まれたノミのハンドルには、「BIKKY」(ビッキ)のサインが彫られている。彫る木々を同胞としたビッキ。このノミもまた同胞であったにちがいない。

「ここはもともと廃校になった小学校でした。当時、音威子府村には定時制高校があったのですが、時代の流れの中で生徒数が減っていき、一時期閉校する寸前までいったのです。しかし、せっかく昔からある高校を消滅させるのは忍びないと、当時の狩野剛(かのうつよし)校長が普通科の高校だけでなく、生徒が達成感を味わえる授業を取り入れたいと考え、木材工芸の『インテリア実習科』を新設することになりました。さらに北海道が生んだ世界的な木工彫刻家、砂澤ビッキの存在に注目し、『高校にビッキが訪れてくれれば、生徒の励みにもなるし宣伝にもなる』と考え、展覧会を開いていたビッキのところへ校長先生が会いに行きました。
 そして、『旭川や札幌と違って音威子府村は森に囲まれていて、いい木がいくらでも手に入ります』という話をしたのです。その頃のビッキは木材の調達にてこずっていて、それが効果的な口説き文句になったようです。ビッキは早速、音威子府村を訪れました。それがビッキとこの村を結んだ最初のきっかけでした」
『砂澤ビッキ記念館』名誉館長の河上實(まこと)さんは言う。

ビッキは昭和58(1983)年にカナダへ渡った。そこでハイダ族のネイティブ・インディアンたちと交流する。この作品は、かつて音威子府駅前にあった高さ15mのトーテムポール『オトイネップタワー』を分割し、横たえて展示している。

 幼少からアイヌ語でカエルを意味する「ビッキ」の愛称で呼ばれた少年は、独学で彫刻を学び、やがてその才能を開花させ、日本の彫刻界に新風を巻き起こした。この村に移住した頃のビッキは、すでに日本のモダンアートをけん引する一人として、世界からも注目されるアーティストだった。
 アカエゾマツやミズナラなどを中心に広大な原生林を有する音威子府村は、ビッキにとって宝の山であった。彫刻の素材となる樹木は、大きなもので直径1.6m、長さ7m、重さは7tにも及ぶ。その当時、材木商を営んでした河上さんをはじめ村の人たちは、自分の山でそうした彫刻の素材となる巨木を見つけると、ビッキが喜ぶだろうと伐り出しては運んできたという。

1983年、ビッキはヤナギの枝を用いた作品制作に熱中した。そのひとつがこの『樹華(きばな)』という作品。

「ビッキは音威子府村に移ってから、作風が変わっていきました。『午前3時の玩具』という有名な作品がありますが、あれはまさにそれまでやってきた作品と移住して以降の現代彫刻の要素が、見事にミックスされた傑作だと思います。工芸とモダンアートが絡み合っているのです。作風が変わっていったのは、広大な原生林、その山間をとうとうと流れる天塩川の雄大な景色を有する音威子府村の環境も、大きく影響したと思います。
 ビッキは『自然に浸かると、自分が見えてくるんだ』とも語っていました。

1984年1月、カナダから帰国したビッキは「樹の心」を求める。カツラの木で作られた「TOH」の題を持つ作品は3点あるが、そのなかでも樹の成りたい姿を追求して彫り上げ傑作がこの作品。刻まれたノミの跡にビッキの心情が映る。

「プランNo.1」(1979年作)。音威子府駅前に建立された「オトイネップタワー」は高さ15mもあった。これは村議会へ提出された試作品。素材はナラ材を使用している。

 本当の意味で自然と共生しているというのですかね。だからビッキは樹木のことを『同胞』と呼ぶのです。彫刻の材料ではなく仲間だと思っている。そして『彫刻をする前に木と対話して、木がなりたがっている形をしっかり自分の中に入れて、さらに俺の意見もちょっと入れさせてもらって作るんだ』と話していました。ですからビッキの作品はすべて『自然との共同作品』だったと思います」

木に緑色の顔料を塗り込んで、ブロンズの緑青に見立てたサケとヒラメ。彫り込まれた文様はビッキオリジナル。木を金属に変えてしまうビッキの技、それは「錬金術」と言ってもよい。

 河上さんに『砂澤ビッキ記念館』を案内してもらうと、ビッキが内包した「風」「樹」「土」「火」「水」「人」など、さまざまなイメージで空間に作品が展示されていた。ビッキが樹の声を聴き、樹の生命観を感じながら風の姿を見つけ出す。そんな精神を感じる空間が演出されていた。そして、ヒラメやサケなどビッキの彫った魚たちの多くには、ボディーに渦巻き模様が彫られ、その文様は風でもあり、川の流れにも見える。
 釣り人が天塩川で手にする躍動感あふれる魚体は、ビッキが見たものと同じであろう命の文様が輝き、生命の風を感じることができる。ビッキはこう言っている。
「風よ お前は四頭四脚(よつしきゃく)の獣 お前は狂暴だけに
人間たちはお前の 中間のひとときを愛する それを四季と言う
願はくば俺も 最も激しい風を全身に そして眼にふきつけてくれ
風よ お前は四頭四脚なのだから
四脚の素敵な ズボンを贈りたいと思っている
そうして一度だけ抱いてくれぬか」(1989秋 砂澤ビッキ)


砂澤ビッキ記念館
北海道中川郡音威子府村字物満内55番地
TEL/01656-5-3980
https://bikkyatelier3more.wixsite.com/atelier3more

砂澤ビッキ(すなざわ びっき)
1931年アイヌのエカシ(長老)一族として近文コタン(現旭川市内)に生まれる。本名:砂澤恒雄。1953年22歳の時に木彫を始め鎌倉へ移住。1957年第7回モダンアート展初入選。1958年第8回モダンアート展新人賞受賞。1959年北海道に戻り、北海道と東京を中心に多くの展覧会に出展。1978年に上川地方北部の音威子府村筬島に移住し、小学校跡地をアトリエとして他界するまでの十余年、精力的に木彫作品の制作を行なう。北海道を中心に屋外彫刻も多数手掛け、大胆にして繊細、原始的にしてモダンな独自の作風を確立し、その作品は国際的にも評価が高い。1989年逝去(享年57歳)

河上 實(かわかみ まこと)
エコ・ミュージアムおさしまセンター「砂澤ビッキ記念館」名誉館長。
1938年北海道美深町生まれ。林業家の父と一緒に砂澤ビッキが必要とした木材を調達し、公私にわたり面倒を見て、晩年も支え見守った。「河上氏なくして、音威子府のビッキはなかった」と誰もが口をそろえる。現在、砂澤ビッキの展示会など、さまざまな企画運営を行っている。

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