取材・文◎本誌編集部
写真◎足立 聡
詩人でエッセイストのアーサー・ビナードさんは、アメリカ・ミシガン州生まれ。自分の周りにいる人々は、釣りをあたりまえに嗜む環境で育った。日本語を大切にしながら文章を書くことは大好きな仕事だが、仕事に追われてたくさんの言葉に囲まれすぎると、ときどき方向を見失うことがあるという。そんなときの特効薬は、深い自然の中で釣り竿を握り、極めてシンプルな暮らしの中で時間を過ごす釣り旅だという。
今回、アーサーさんが訪ねたのは、北海道道東・斜里岳の麓。そこには友人で彫刻家の金兵直幸(かなひょうなおゆき)さんの電気もガスも水道もない、自給自足的なアトリエがある。近くには名所「サクラの滝」があり、7~8月にかけて産卵のためにオホーツク海から斜里川を遡上するサクラマスが、勢いよくジャンプする姿が見られるという。その斜里川でアーサーさんと金兵さんは、オショロコマやヤマメを相手にロッドを振った。
「1年ぶりなので、自分が落としたい場所に毛鉤が落ちなくて最初は苦戦しましたが、ここの魚は優しいから、少々ずれてもちゃんと針に掛かってくれました」とアーサーさんは、小ぶりだが太ったヤマメを嬉しそうにリリースした。
彫刻家である金兵さんは、小学校1年生まで斜里町に住み、その後、津別町に引っ越した。周囲には津別川や常呂川(ところがわ)など、釣り人を唸らせるような河川に囲まれて育ったにもかかわらず、釣りはほとんど経験しなかったという。
「釣り好きからすると、斜里小学校に通って釣りをしなかった男の子は、天然記念物級かもしれないですね。それなのに山菜を探すのは、熊よりも上手だというから面白い」とアーサーさんは感心する。
その天然記念物級の金兵さんが、今回初めてフライロッドを握った。アーサーさんからわずかな時間だけキャスティングのレッスンを受け、そのまま川に足を踏み入れて流れにフライを落とすと、なんと1投目で朱点の美しいオショロコマ釣り上げてしまったのだ。
「子どもの頃から、静かな流れの川に惹かれていました。知床方面にもすごく静かで、いい川がありますし、湧き水もいいですね。釣りはしないのですがどういうわけか、そういった水の流れがすごく好きなのです。夏になると運動靴のまま小さな川に入り、川通しで上流まで上ったりして、釣りもしないのに1日中、川の近くで過ごすことも多かったですね」と金兵さん。
金兵さんの川歩きに不安な様子はなく、苔がつき滑りやすい斜里川をすたすたと横切るその姿は、むしろベテランの渓流釣り師に近い。詳しく聞けば金兵家では大切な食料採取として春から夏にかけて、沢沿いの山菜を摘むための川歩きは、ごく日常のことだという。
「これからは、山菜採りには釣り竿持参ですね。この斜里川で育まれた魚を大切に、少しだけいただきたいと思います。川の命のたすきリレーです」と金兵さん。
午前10時から午後3時まで釣りを楽しんだアーサーさんと金兵さんは、釧路駅と網走駅を結ぶ釧網本線(せんもうほんせん)・緑駅近くのアトリエに戻ると、井戸で水をくみ、明るすぎないランプの灯りの下で夕食を作りだした。
金兵さんは高校卒業後、日本を代表する彫刻家の小畠廣志(こばたけひろし)氏が主宰する彫刻の専門学校に通い23歳で卒業。その後、イタリア、ドイツ、フランス、ポーランドなど、ヨーロッパ各地と日本を行き来しながら作家活動を続ける。その後、「とにかく水がきれいなところに住みたい」と、生まれ故郷でもある北海道に創作活動の拠点を移し、この自給自足的アトリエを造った。
金兵さんの作品テーマの一つに水の循環がある。川から海へ流れた水が蒸発し、また雨になって山に戻ってくるという循環、その一部として自分もあるというものだ。この地にアトリエを移したことで、そうした気づきを確かめられたという。
「ここは国有林に植林をするためのトドマツの苗床畑で、作業人が寝泊まりをする建物でした。現在はアトリエとして使用していますが、フランスから戻った後、ここ斜里郡清里町には9年間住んでいました。『たまには電気を引かない人間がいてもいいか』思って、電気のない生活を続け、本当に必要なときは発電機を回しました。
井戸も掘りました。冷たくておいしい水で、摩周湖の伏流水だといわれています。軟水だからコーヒーやお茶をいれると味が引き立ちます。指先で触ると少しヌルッとした感触があって、クラスターが細かいことがよくわかります」と金兵さん。
アーサーさんが金兵さんのアトリエを訪れたのは、今回で2度目。釣りも含め周囲の自然を改めて見渡すと、金兵さんがここに住んでいるのは、故郷だからとか土地勘があるということよりも「この土地に呼ばれているのではないか?」と感じたという。
「絵画は目で見て楽しむから、わかりやすいですよね。音楽は耳で楽しむし、舞踏も僕がやっている言葉の芸術も、わかりやすいと思うのです。だけど彫刻は、立体を作るでしょう。見てもいいし、触ってもいいし、叱られるかもしれないけど乗っかってもいい。そして、金兵さんの作品も含めて、力のある彫刻は『場』を変える力があるのだと思うのです」
アーサーさんはそう話すと、イギリスのストーンヘンジのような巨石文明も、斜里町にある縄文後期にできたといわれる朱円(しゅえん)のストーンサークルも大地の彫刻と考えれば、自然の中の「場」というか「気」を変える巨大な装置のようだと。そして、金兵さんがこの建物で創作活動することは、トドマツの元苗床畑を取り巻く森、そこに住む動物たちに都合がよいように感じる。そう考えると彫刻は、かなり面白い芸術だと言う。
「作品と周囲に何らかの関係ができたとき、それによって自分自身も変化することがあります。言葉ではなかなか表現しづらいのですが、自分が一段階違うレベルに入ったというか、昨日までの自分とは何かが変わった感じがするのです。
今回、アーサーさんに釣りを教えてもらい、手ごたえを感じました。その手ごたえが創作面なのか人生に対するものなのか、具体的に何かはまだわからないのですが、竿を握り気配を殺し、周囲の自然と同調する。そして、命と直接触れる『釣り』は、自分にとって未来の風景を変えてくれるような予感がするのです」と金兵さんは言う。