語り◎名嘉睦稔 Talked by Bokunen Naka
取材・文◎本誌編集部
写真◎狩野イサム
沖縄県の陶芸家、故・金城次郎氏は、日常的な暮らしに「用の美」を見出そうという積極的な姿勢が認められ、1985年、沖縄県で初の重要無形文化財保持者(人間国宝)に選ばれた。笑っているように見えるユーモラスな魚の「魚紋」や「海老紋」は、金城次郎作品を代表する絵柄であり、まさに器の中に沖縄のすべてが凝縮されている。戦前、那覇の海で育った次郎氏の芸術性と発想の原点を求め、同じ沖縄県出身の世界的な木版画家、名嘉睦稔(なかぼくねん)さんがその足跡を訪ねた。
金城次郎氏は、大正元年(1912)年に沖縄県那覇市与儀で生まれ、陶工の修行に入ったのは大正14(1925)年13歳の頃だった。沖縄の焼き物の拠点であった昔の壺屋(つぼや)地区は、焼き物の一大製造地で南・北・中部に窯があり、土を作る人や轆轤(ろくろ)を回す人など作業は分業制で行っていた。次郎氏のお孫さんで陶芸家の藤岡香奈子さんによると次郎氏の父、金城宮清氏も「ンチャクナーサー」といって粘土を踏んで陶土を作る専門職人で、壺屋の各製陶所を回っていたという。
次郎氏が入門したのは、壺屋にあった新垣永徳の製陶所だ。ここで陶芸の基礎を学び、昭和20(1945)年に沖縄戦が終結すると翌年の昭和21(1946)年、次郎氏は那覇市壺屋に築窯する。
「その頃、柳宗悦を団長とする『民藝運動』の濱田庄司や河井寛次郎ら民藝関係者が、次郎さんの作品をはじめ、壺屋焼きのさまざまな焼き物を見て驚愕するわけです。何に驚いたかかというと、生活の道具を突き抜けた強さがあったからだと思います。
壺屋で日常の道具を作っているのは無名の市井の人たちで、頓着しないで使っているのに『芸術作品を作るぞ!』と意気込んでいる人を、軽く超えているところがあったのだと。市井の人は作るときに肩ひじを張らずに錬磨しているわけだから、筆の運びにしても掻き落としにしても達人です。そういう美を、民藝運動を推進していた人たちが知って、高く評価したのだと思います」と睦稔さんは話す。
金城次郎氏の壺屋焼の特長は、柳宗悦が言っているように「強さと若さ」だと睦稔さんは言う。そして、壺でも甕(かめ)でもシルエットが横に広がらず、どちらかというと木の実を連想させるようなフォルムの作品が多いようだと。
「ノボタンやチャーギ(イヌマキ)の実とか、クロキ(リュウキュウコタン)の実とか、クチナシの実とか……そういった木の実が持っている丸みがあるのです。なかにはブルーベリーのように横にブクッと膨れているものもあるけれど、野生の木の実は紡錘形をちょっと膨らませたような感じです。そういった天然の豊饒さを感じさせるシルエットに魚紋が入っています。
多くの人は次郎さんの作品を見て『おおらかだ』と言うけれど、実はキュッとした滑らかさがある。迷いがないというのかな。職人は迷いなく仕事をするけれど、次郎さんの作品には人間性が反映されているような気がします。仕事に対する姿勢が真摯で迷いがなく、功名心とか成功欲は、あまりなかったんじゃないかな。普通に『いいものを作ろう』という、次郎さんなりの職人としての美意識でね。
藤岡さんのお話しでは、普通なら茶碗ができたら茶碗だけ、皿だったら皿だけを並べるけれど、次郎さんはそれをしなかったそうです。同じ種類を並べた方が見栄えがいいし運びやすいのに、ランダムに並べて『別にこれでいいさぁ』と言ったそうです。同じ種類を整然と並べるのではなくて、『ここにはこれがあったほうがしっくりする』という、独自の空間的美意識があったのではないかと思います。
モノが誕生する前の気分や空気も併せて、モノが置かれている風景を感じていたのだと思うのです。だから『これはここ』というインスピレーションが生まれる。雑然と並べているように見えるけど、次郎さんの中には『並びの美しさ、たたずまいの美しさ』があったのだと思います。こだわりというか、直感のようなものがね。
線を描くときも引っ掻いて線を付けるわけだけど、次郎さんの作品は、線が密集している部分と線が少なくて開放されている部分があります。そこに藍の色を差したりして、線の構成と色面の構成が、白地の中で絶妙なバランスを保っているようです。
民藝運動の人たちが好んだ要素として白い部分、余白の空き方も好みだったのではと思います。その余白の中に、あの力強さがある。空間を捉えて利用するのが日本人は上手だし、空間のありように情緒が宿るから、そこに生きとし生けるものの情感が映える。そんな細やかな命の情感が、次郎さんの作品の根っこの部分にあると思います。それが前面に出すぎると食傷気味になるのだけど、うまい具合に抑えられていて、作品のおおらかさを引き立てている。今日、次郎さんの作品を見て触れて、そういう印象を改めて持ちました」
魚がまるで生きているような生命観あふれる金城次郎氏の作品は、線に躍動感がある。線と色が一つの塊になって全体として強く訴えてくることで、文様と色とが空間の中で一つになっている。そして、どの方向から見ても隙がないと睦稔さんは言う。
「線の描き方は、訓練すれば上手になるイメージがあるでしょう? でも、そうじゃないのです。線を描くセンスは、持って生まれた才能で決まります。これは、いかんともしがたい事実です。実際に魚をひたすら観察したからといって、ああいう絵は描けないのです。
藤岡さんが次郎さんに『なぜ魚を描くの?』聞いたところ、『沖縄のことを描こうと思ったら魚になった』と言ったそうです。そして、『これは何という種類の魚ですか?』と質問されて困った次郎さんは、『夢に見た魚です』と答えた。それが正解です。蝶々も何か特別な種類を描いているわけではなくて、『ただの蝶々』なのです。次郎さんの感性で必要な線だけ残して文様化すると、ああいう感じになるのだと思います」
睦稔さんは、金城次郎氏のすごさをひと言でいうなら、「本人は『何か特別に変わったことをしているつもりはない』と自覚していたことだ」と言う。自分の仕事を愛し、日常生活の中で仕事をせっせとこなし、真面目に働くことを人生の基本とすることが生きがいだった。人間国宝の認定はあくまで結果であって、本人はそれを目指したわけではない。普通のオジイが粛々と仕事をこなした結果、途方もない世界を創ってしまったのだと。素晴らしい芸術作品が生まれるというのは、そういうことなのだ。そして、睦稔さんは金城次郎氏のその姿に、強い憧れを感じるという。