2020
01.17
Vol.64 ② 開高健と銀山湖物語(後編)
特集「開高 健の釣りと旅」
「“悠々として釣り急いだ” 作家・開高健の珠玉しゅぎょくの釣り人生」番外編

“河を眠らせ、貧山湖とだけは呼ばせたくない”
開高健とイワナ翁たちの決意と銀山湖

取材・文◎フィッシングカフェ編集部 写真◎隈 良夫

 新潟県小出町方面から奥只見ダムへと続く、奥只見シルバーライン。長く狭い明神トンネルの途中を右折すると、北ノ又川を渡る大きな橋、白光岩橋がある。セミも鳴かず、水生昆虫の羽化もない、静寂な真夏の北ノ又川。しかし、河床からかすかに漂う清流の香気が、「川には、その川独自の匂いがある」と改めて認識させてくれる。橋の下は左右にゴロタ石の河原が広がり、蛇行する流れは300mも下れば、銀山湖に吸い込まれる。
 欄干からのぞけば、幾筋もの細い流れが集まる淵があり、釣り人ならまず仕掛けを投じたくなる格好のポイントがあった。橋の上からそっと目を凝らすと、何尾ものニジマスが尾ビレを揺らし、深いブルーの底にゆったりと定位している。

銀山湖から北ノ又川を上流に遡り2本目の橋が石抱橋。その上流は禁漁区となる。下流を見下ろせば、多くの釣り人が思い思いの釣りを楽しんでいた。

 着替えを済まし、はやる気持ちを飲み込んで毛鉤を結び、上流からドライフライを流す。しかし、こちらの意に反し、まったく反応はない。流れ込みの脇の筋、緩やかな開き、岩の横の溜まり……。魚が出そうなポイントを次々と攻めてみるが、魚たちは沈黙を守り、毛鉤は魚の頭上を通り過ぎる。「ならば、沈めてみよう」とニンフを流すが、反応どころかまるで子供が「いやいや」をするように毛鉤を避ける。さきほどまでの期待感はしぼみ、徐々に失望感へと変わっていく。
 それでも気を取り直し、魚にやる気をおこさせようと北海道でしか使ったことのない、巨大なカディスを結び、対岸の上流方向、太い流れの向こう側へキャストする。派手に優雅にドリフトする大きなカディスが流れきったところで、竿先を震わせながら流芯を跨いで引いてみる。これはいわゆる“フラッタリング”というテクニックで、水生昆虫の水面での羽ばたき行動や、産卵時などの浮遊行動を真似た誘いだ。
 2度、3度としつこく同じように誘いながら引いてくると、5、6尾の群れの中の一尾がやっと毛鉤に気づき、急浮上したかと思うと間髪入れずに毛鉤を咥え込んだ。釣り上げてみれば、35㎝ほど雌のニジマスだった。

ナチュラルに毛鉤をドリフトさせても、まるでやる気のなかったニジマスが、誘いを入れて粘ると急にスイッチが入った。釣り人冥利に尽きる瞬間だ。

「開高さんがよく言われたのは、『人間が自然を守れるというのは、傲慢な考えだ。人間が生きていくということは、自然を破壊することなんだ。自然と、どう関わって生きていくかが大切なんだ』という言葉です。
 湖の魚がだんだん少なくなったころ、キャッチ&リリースを最初に始めたのも開高さんでした。当時は、釣った魚を放すなんてとんでもないことで、開高さんに文句を言う人も少なくなかったですね。今の人は、釣った魚をほとんど持って帰らないです。やはり開高さんには、先見の明がありました」と、開高健の銀山湖のガイドとして、数々の釣行を共にした『村杉小屋』初代主人の佐藤進さんは言う。

支流が流れ込む複雑な地形が特徴の銀山湖。今でも大イワナが潜む湖だ。

 銀山湖は、新潟県魚沼市と福島県南会津郡檜枝岐村にまたがる、阿賀野川水系只見川の上流部に建設された奥只見ダム(竣工:1960年)によって誕生した人造湖、奥只見湖の通称だ。その銀山湖で初めて大イワナの姿が目撃されたのは、湖ができて間もない昭和37年(1962年)頃だった。その頃から60㎝を超えるイワナが釣れるようになり、なかには80㎝を超える超大物も釣れたというのだから驚きだ。
 その噂は全国に広まり、大魚を狙う多くの釣り人が銀山湖を訪れた。しかし、徐々に魚影が薄くなり、昭和49年には北ノ又川で産卵遡上魚が見られなくなり、不名誉にも銀山湖ならぬ“貧山湖”の汚名だけが残ったという。

『フィッシュ・オン』著・開高健、写真・秋元啓一(朝日新聞社・1971年刊)
1970年1月からの半年余り『週刊朝日』に掲載された釣行記。1969年のアラスカをふりだしに地球をほぼ半周するかのように、スウェーデン、アイスランド、ドイツ、ナイジェリア、ギリシャ、エジプト、タイと釣り巡り、その締めくくりとして開高健がたどり着いたのが、奥只見川の源流である銀山湖だ。週刊誌には、第三次中東戦争のルポなども掲載されたが、単行本では割愛され、釣りの記事と写真で埋め尽くされている。

≪ワカサギ、ヘラブナ、ハヤ、コイなどが棲みつき、それらの幼魚をあさってイワナやニジマスがむくむく育ち、ことにルアー釣りが行われるようになってからは海育ちのマスやサケをおどろかせるくらいみごとなのがあがるようになった。湖畔の旅館の入り口にかかっている魚拓(ぎょたく)を見たら、カナダかアラスカへ迷い込んだのかと眼をこすりたくなるほどである。しかし、ラッシュ時代は例によって短く、はかなく、あっけなくて、いつとはなく魚は激減し、スレてしまい、かつ小さくなってしまったのである。(中略)
 そこで私たちはルアー師、フライ師、ミミズ師、イクラ師、ピンチョロ師、各派大同団結してこの湖を蘇生(そせい)、復活させることを決意し、この不況の物価高と女房のブツブツを無視して、敢然、一名一万エンを投ずることをこの春、都内某所に集まって議決したのである。そうして集まった浄財百二十余万エンで湯之谷村役場と新潟県にハッパをかけたのである≫(『地球はグラスのふちを回る』著:開高健/新潮文庫)

北ノ又川の石抱橋から200mほど手前で釣ったイワナ。栄養状態も良く奇麗な魚体だ。

 こう自著で記したように、銀山湖に危機感を持った開高健と仲間たちは、基金を呼びかけ手弁当で魚類の保護を決意する。「奥只見の魚を育てよう」を合言葉に、都会の釣り人や地元の釣り人、民宿や観光業の人々、村の役人など地域行政の人々も会員となり『奥只見の魚を育てる会』を発足したのだ。そして、利害を超えて一体となり、北ノ又川へ500㎏のイワナとニジマスを放流したのが、昭和50年(1975年)のことだ。
 以後、現在に至るまで『奥只見の魚を育てる会』は、放流事業や関係機関と禁漁時期の調整を図るなど、さまざまな活動を継続して行ってきた。密漁対策として、北ノ又川の禁漁区間前に監視小屋を設置したのも、その活動の一環だという。

開高健文学碑の前に立つ『村杉小屋』初代主人の佐藤進さん。開高健と共に“河を眠らせなかった人々”の一人だ。

 白光岩橋の下で、なんとかニジマスを釣り上げた後、北ノ又川をさらに上流へ遡り、ここぞというポイントへ半沈みのパラシュートタイプの毛鉤を流してみた。するとニジマスではなく、魚体の美しい10~20㎝ほどのニッコウイワナが面白いように釣れた。
 さらに川を釣り上ると、2本目の橋である石抱橋が見えてきた。橋から先は禁漁区となるので、最後の一振りと思い毛鉤を流すと、孵化して1年にも満たない8㎝ほどの稚魚が、果敢に毛鉤にアタックしてきた。北ノ又川では確実にイワナの再生産が行われ、40年以上前から始まった『奥只見の魚を育てる会』の活動の成果が、目に見える形で結実しているのだ。
 石抱橋の畔にある開高健文学碑の碑面には、「河は眠らない」の文字が大きく刻まれている。2020年で開高健没後30年を超えたが、そこには銀山湖への太く永い思いを胸に秘めて河を眠らせなかった、多くの人々の意思も刻まれている。
「開高健文学碑は、くしくも北ノ又川ダム建設予定地に立っています。開高さんは、北ノ又川の監視人となったようですね」と、佐藤さんは言った。

佐藤 進(さとうすすむ)

1933年生まれ。開高健が全幅の信頼を寄せた『村杉小屋』の元主人。1961年に当時日本一の貯水量を誇ったダム湖・奥只見湖、通称・銀山湖が誕生し、その4年後の1965年から銀山湖の村杉沢で『村杉小屋』を開業。1975年、開高健を会長に発起した『奥只見の魚を育てる会』の事務局長を務め、銀山湖の放流事業や関係機関と禁漁時期の調整を図るなど、さまざまな活動を行ってきた。

その他の取材こぼれ話