文◎編集部 写真◎狩野イサム
「昔から東京湾のスズキ釣りは大好きで、長年やってきました。竿を自作したりしてずいぶん凝りました。今でもスズキ竿とコチ竿を持っているのですが、スズキ竿は竿先の調子が難しいのです。
スズキの場合、餌をくわえるときグッと引っ張って、抵抗を感じると放してしまいます。そのため竿先が柔らかくて、胴のしっかりっしたものが必要になります。胴がしっかりしていないと、水面に上げた時グニャグニャで、話にならないのです。コツコツときたら1メートルくらい竿先を下げて糸を送り込み、そのとき竿の抵抗もなくなるような調子の竿です。その微妙な調子を求めると、自分で作らざるを得なかったのです」と、今回、江戸湾のスズキ釣りについて話をお聞きした長辻象平さんは言う。
長辻さんは現在、産経新聞東京本社論説委員として活躍している科学ジャーナリストだ。魚類生態学にも造詣が深いが、釣魚史研究家として第一人者でもある。もちろん釣り好きで、古典的な活きエビのスズキ釣りを昔から楽しんでいたという。
「江戸湾のスズキ釣りということで、江戸庶民のスズキ釣りについて調べてみたのですが、元禄の初めに書かれた『本朝食鑑』にも、それこそ『
他に文化14年(1817年)から天保元年(1830年)にかけて『釣りひとり稽古』という当時のマップがあって、それにセイゴの釣り場がポロポロ出てきます。それによると、隅田川と中川にスズキの釣り場があったとあります。
また、幕末に黒田
いずれにしても、本格的にスズキを相手にした釣り文献は、この『釣客伝』からです」
また東京湾には、昔からスズキはたくさんいたが、江戸期は網や延縄で獲っていたと思う。魚が強すぎて、一般の釣り人の遊戯魚ではなかっただろう。引きが強い点ではタイも同じだが、タイは深いところから引き上げるので浮き袋が膨れて、海面での抵抗が弱まる。しかしスズキは、途中の引きも猛烈に強く、最後まで暴れる。しかも水面でのエラ洗いなど、表層で一番力を発揮する魚だ。そのため当時の釣り人では歯が立たず、まさに漁師の腕の見せ所だったはずだと、長辻さんは言う。やがて明治期に入ると、スズキ釣りの様子がさまざまな文献に載るようになった。その理由は、釣り針の進化ではないかと言う。
「スズキは本当に神経質な魚です。餌をくわえても違和感があればすぐに吐き出す。横浜の本牧で昔ながらの活きエビのスズキ釣りをやっている船長さんに言わせると、釣り針が重要だと言います。釣り針が軽いとエビが自由に動けて、釣り針が重いと動けない。そういうわずかな違いを、スズキは見ているのだと思います。
江戸時代の針は、曲がるように作られていました。ですから釣り人は『針曲げ』という道具を持って釣りに行き、伸びたら自分で直して釣っていました。軸の部分が柔らかいので、根掛かりで針を失うことを防げたのでしょう。そんな釣り針では、スズキがエラ洗いで飛び跳ねたら一瞬で伸びます。昔の技術だと軸を強くするには、針を太くしなくてはなりません。しかし、釣り針が太くなるとスズキは掛からない。そういう部分もあって江戸時代には、スズキの遊戯魚としての釣りが広まらなかった、という見方もできるかもしれません」
元禄から享保の間(1688年以降)の釣り指南書である『何羨録』には、多くの釣り針が掲載され、釣り針の素材である針金をいかにして手に入れるかの苦労も記載されている。
和鉄は刀の原料にもなるが、硬さと粘りと細さをへい立させる釣り針の素材としては、難しかったのかもしれない。日本の釣り針はバリエーションなどから見ても世界一だが、素材の針金作りは、ヨーロッパの方が進んでいたのかもしれない。それは刃物を見ればわかると長辻さんは言う。
「刀を作るには、不純物を含まない和鉄が向いていますが、現在の牛刀のような薄い包丁は作れず、どうしても出刃包丁や刺身包丁のように厚みが出ます。また、和鉄は砂鉄からですが、ヨーロッパの鉄は鉄鉱石から作ります。そういう鋼材が手に入れば、加工して釣り針を作る技術はすでにあったはずです。
そう考えると、明治期の文明開化以降になって伝わった製鉄技術や鋼材でスズキの極めて高いハードルを乗り越えた、と考えるのが妥当ではないでしょうか。江戸湾のスズキ釣りには、釣り人が気になるたくさんの要素が内包していると思います」
長辻象平(ながつじ しょうへい)
1948年鹿児島県生まれ。京都大学農学部卒業。産経新聞東京本社論説委員。科学ジャーナリストとしての活躍と並行し、釣魚史の研究を続ける。著書に『大江戸釣魚大全』(平凡社)、『江戸の釣り』(平凡社新書)、『釣りをめぐる博物誌』(角川書店)をはじめ、イワシ漁をから始まる元禄経済社会を時代小説としてまとめた名著『元禄いわし侍』(講談社)など多数。近著に刀鍛冶を題材にした時代小説『半百の白刃 虎徹と鬼姫(上下)』(講談社文庫)がある。