取材・文◎フィッシングカフェ編集部
写真◎津留崎 健
江戸時代釣り好きの暦といえば春のフナ釣りに始まり、アオギスを楽しんだ後は、初夏のアユやチヌ。秋風に癒されながらのハゼやボラ、寒の締めにはタナゴに遊んでもらう。他にもフッコやヤマメ、ハヤなど、1年を通してさまざまな魚種を狙い愉しむのが粋であり、一般的だった。そして、それぞれの魚に対して専用の竿を手にすることに、無上の喜びを感じていた。
18世紀初頭に黒石藩主の津軽采女(つがるうねめ)が書いた日本最古の釣り指南書である『何羨録(かせんろく)』には、江戸前の120カ所の釣り場について詳細な記述がある。竿、釣り針、道糸などの釣り具、餌について述べられ、釣りの季節、天候の見方など各種口伝類も紹介されている。300年近くも前に、そうした釣り専門の指南書が書かれたことを考えると、当時の釣り人たちの並々ならぬ探求心がうかがえる。
そうしたなかで和竿の『東作(とうさく)』が下谷稲荷町に創業したのは、18世紀後半、天明3(1783)年といわれ、初代・泰地屋東作(たいちやとうさく)は、もともと紀州徳川家の江戸詰めの武士だったという。
明治45(1912)年に農務省山林局が編纂した『木材ノ工芸的利用』という本によると、天明の頃、江戸に松本東作という釣り好きの武士がおり、自ら釣り竿を制作し、下谷広徳寺前に店舗を構えた。そして、妻の父が材木商を営む泰地屋三郎兵衛(たいちやさぶろうべえ)という名だったことから、屋号を『泰地屋東作』とし、本名を松本三郎兵衛と改め、その後、初代東作はさまざまな研究を重ね、釣り竿界に新風を巻き起こしたという。
二代目東作・松本安太郎も名匠と呼ばれ、三代目東作・松本勇太朗は、明治期に行われた勧業博覧会において優勝し、徳川慶喜公や三井財閥などの重鎮たちが、その作品を愛用したそうだ。また、四代目東作・松本政二郎も腕の良さで評判を博し、大正から昭和、そして戦後まもなくが江戸和竿の最盛期となる。戦前、戦後に『東作』で修業する弟子の数は、合わせて40人ほどいたという。
その後、五代目、六代目と引き継がれるなかで、アメリカがもたらしたリールの普及などもあり、竿師の仕事も目に見えて広がりを見せる。そして、昭和30年前後にグラスロッドがアメリカからもたらされ、『東作』でも昔ながらの和竿の他にグラスロッドを作るようになる。やがて製作したクーラーボックスが評判となり、昭和42年には釣り具の総合メーカーとして、東作釣具株式会社に成長した。しかし、残念ながら昭和45年に倒産する。
「僕が大学1年のとき、家は倒産していました。それまで何不自由なく育ち、釣り関係のことはほとんどやっていなかたので、それからが苦労の連続でした」と、七代目東作・松本耕平さんは当時を振り返る。
しかし、耕平さんの父である五代目東作・松本栄一さんの下、『東作銀座店』を切り盛りしていた耕平さんの姉の頑張りで「和竿だけで、一からやり直そう」と昭和48年頃から再建の道をたどる。そして、現在の地に店舗兼作業場を構え、七代目東作の松本耕平さんを中心に和竿づくりの伝統を守り続けている。
耕平さんの双子の息子さんは、二人とも和竿づくりに励んでいるが、次男の松本亮平さんは、高校を卒業すると叔父であり、江戸和竿の最盛期を知る六代目東作・松本三郎さんの下で修行を積む。そして三郎さん亡き後、父耕平さんとともに東作の伝統を守り、八代目を目指している。
「当時、六代目の親方の作業場が、埼玉県の川口にあり、高校卒業後、月・水・金の週3回通わせてもらい修業しました。長くやってこられた親方なので、いろいろなことを教えていただきました。父も東作を再建するため、親方のところに一度修業に入っています。そのときの父の体験談も聞きながら、修業を続けました。父からは、お客さんが何を求めているかなど店のこと、あるいは釣種ごとの竿の調子についてアドバイアスしてもらいましたが、和竿づくりの技術的なことは六代目から学びました」と亮平さんは言う。
六代目の下で修行を始め、竿らしい形になるまで3年ほどかかったそうだ。特に難しかったのは、「切り組」という技術だったという。切り組とは、まず何を釣るための竿か注文を受け、竿の長さ、重さ、継ぎ方や注文主の好みなどを考慮し、使う竹を選び出し、それに合わせて一本の竿に仕上げる、竿づくりの根幹となる技術だ。ベテランになればアユ竿ならアユ竿のセオリーがあり、穂先から手元までのバランスを考え、さまざまな要素が複雑に作用している点に配慮して切り組を行う。
「長さだけでも、調子だけ考えてもダメです。竹同士が組んでくれないのです。ですから最初の頃は、六代目の親方が切り組んでくれたのを引き継いで、少しずつ覚えていきました『種類の違う竹を組み合わせて、もっと良くしよう』というわけですから大変です。
当然、お客さんにそれぞれに好みの感覚があり、同じ『硬い』でも、お客さんによって感じ方が違います。切り組みから仕上げまで、全部自分ひとりでできるようになったのは、3年目くらいだと思います。和竿づくりにはさまざまな技術があり、それぞれに難しさがあります。今でも切り組みは難しいですし、切り組みは、和竿の命だと思います」と亮平さんは語る。
現在、亮平さんは、六代目・松本三郎さんが広げた和竿の意匠に自分なりの色の組み合わせなどを行い「和竿の新しい可能性」を模索しているという。そうした息子の竿づくりに対して、七代目・松本耕平さんは言う。
「時代の波はどんどん速く流れていきますが、私は自分たちの時間軸で進んでいこうと考えています。ときには時代の流れとは逆の方向に進みますが、『和竿一本でやっていこう』と決めて、今日まで何十年もやってこれました。雨露をしのぐ家があって、温かいご飯が食べられるだけの収入があれば、それでいいと思っています。ですからこの便利な時代に、和竿という不便な道具を愛した人と商売できるのは、幸せかもしれません。
私は、日本家屋に畳と襖が残っているうちは、和竿も生き残ると信じているんです。なぜなら、手入れの楽しみもあるからです。竹竿は不便な道具かもしれないけど、『釣れた、釣れない』だけでは終わらない、何かがあります。作り手と使い手がつながっているツールのような気もするのです」