取材・文◎フィッシングカフェ編集部
写真◎西野嘉憲
「僕の実家は、東京都杉並区の高円寺です。ごく普通のサラリーマン家庭でしたが、父が海釣り好きで、小さい頃から一緒に釣りに連れて行ってもらいました。江戸前のハゼ釣りから始まって、今のお台場、浦安の堤防へもよく行きました。父と船に乗って釣ったことも、渡船に乗せられて横浜の沖提に上がったこともあります。
沖堤では五目釣りなのですが、メインはサバでした。子どもからするとサバの引きの強さは圧倒的で、今でもその感覚が身体に残っています。もう少し大きくなると、クロダイのヘチ釣りも教えてもらいました。へチ釣りは、道具や釣り方がシンプルで、魚とダイレクトにやりとりでき、しかも足元から驚くほどの大物が釣れるので、ほんとうに面白かったですね」
永井さんにとって幼年期、少年期の釣りの体験は、強烈だった。中学生時代は釣りクラブに在籍し、美容師やアパレル系の仕事を目指す傍ら、釣りだけは続けていたという。
「西表島に移住するきっかけは、美容師をやっているときに先輩が、急にお店を辞めたのです。『辞めてどうするのですか?』と聞いたら、『沖縄へ行ってサトウキビ畑のキビ狩りに行く』と言うんです。収穫期になると、そういうアルバイトがあることを後に知ったのですが、そのときはすごいことをするな、世の中には大胆なことをする人がいるもんだなと感心しました。それが頭のどこかに残っていたのかもしれません。僕が西表島(いりおもてじま)に来たのは、それから3~4年後でした」
90年代の初頭から始まったGT(ロウニンアジ)を筆頭とするソルトウォーターのルアーゲームは、多くのルアー専門誌の誌面をにぎわし、その迫力のある釣りに永井さんは一気に魅了された。しかし、そうした釣りは旅費も含めて当時も今も決して安価ではなく、永井さんにとって手に届く範囲ではなかった。そこでガイドになって現地に住めば手っ取り早いと考え、フィッシングガイドになるための求職活動を行うようになったという。
「沖縄だけでなく、ガイドができないかと小笠原へも行きました。石垣島でGTロッドを作っている会社へ話を聞きにも行きました。『釣り竿を組み立てる仕事があるぞ』と言われたのですが、自分の希望とは違うなと思い辞退し、たまたま雑誌に載っていた西表島のマリンサービス会社へ、今思うと失礼なのですがアポイントなしで訪ねたのです。するとたまたま欠員があったのか働かせてくれることになり、ほんとうにラッキーでしたね。そのまま東京に戻らず働き始めました。1995年、ちょうど22歳になる年でした。
その会社は、仕出しを行うレストランも経営しており、朝の6時くらいから弁当を作り始めて、1日200食くらい作っていました。その仕事を終えてからガイドを手伝い、夕方からはレストランの仕事で、寝るは夜の11時過ぎです。最初の2カ月で音を上げそうになって、東京に帰ろうかと思いました。でも、つらいと感じたのは、そのときだけでしたね。その後はGT用のルアーを作ったり、パーツを買って見様見真似でロッドを組み立てたりするなど、どっぷりと釣り人生にはまっていきました。
その頃は、先のことは何も考えてないで、独立しようとも考えていなかったですね。とにかく釣りができればよかったのです。何しろ『僕には釣りしかない!』と決めていましたから」
3食付きの住み込みで、最初の月給は3万円。その後、5万円、8万円となるが、住居費と食費がかからないので十分生活できた。都会で働いて気晴らしで釣りをするよりも、はるかに充実した日々を送っていたという。
「僕の夢は、ガイドになってお客さんにGTを釣ってもらうことでした。ですから休みの日は船を借りて、自分でポイントを探しに行っていました。当時はまだポイントも開拓されてなくて、海図を片手にいろいろと島を回っていましたが、まぁ釣れましたが、切られまくりました(笑)。自分一人で操船しながらなので、魚を掛けた後のフォローができないのです。あまりに切られるので、当時付き合いだしたばかりの家内を連れて行くようになったんです。船を『バックして、もっと寄って!』とか(笑)」
その後、4年近くガイドの修業をし、20年ほど前に伸子さんと結婚、と同時に独立する。西表島の良いところは住民間に閉鎖的な部分が少なく、新しいことを始めるにあたっても筋を通せば、比較的抵抗なく受け入れてくれるところだという。
「上原地区は、僕のような本州出身の人が多いので助かりました。でも僕は、島人(しんまんちゅ)ではないという本質は変わりません。その辺りを自覚して地元の人とお付き合いするようにしました。住民として何かあれば惜しまず協力しますが、何でもかんでも深入りしないなど、距離感を保つことが必要ですね。それと島の人は、子どもをほんとうに大切にしてくれるのです。それだけでも移住したかいがあります。
ただ、独立した当初は生活が大変でした。夏のシーズン中は懇意にしている人も来てくれて何とかなります。でも西表島は冬のシーズンオフが長くて、12月から2月までの3カ月は、北風が吹いて何もできません。ですから以前は冬場、家内と一緒に東京の実家にやっかいになってアルバイトをしていました。本来は出稼ぎせず、こっちの仕事だけで生活できることが一番なのですが、僕は、漁はしたくなかったのです。釣りのガイドも漁師も、同じように魚や海を相手に仕事をしていますが、自分の中では完全に別物でした。人に釣らせることが、僕の本来の仕事なのです。お客さんに釣ってもらうためのポイントで、魚を釣って市場に卸すのは、何か自分の生き方に矛盾していると思ったからです」
永井さんは12月から2月までの3カ月間、海を休ませるのは結果的によいのではないか。その海が荒れる期間があるから、西表島を含む八重山諸島の海の豊かさは続いているのだと思う。生活のためとはいえ、シーズンオフのその時期に自分が無理やり職漁をしていたら、あっという間に魚が減りポイントは荒れ、ガイドとして誠実な仕事ができなくなってしまうのではないかと思ったそうだ。
「今まで十分、西表島に助けられてきたので、今度は守る側として貢献したいですね。資源は無限じゃないですから、むしろ減る一方です。今のところ西表島には漁協もないですし、遊漁のレギュレーションもありません。同業の人たちと協力して、まず簡単なルールでも決めていきたいですね。『産卵時期は魚をキープしない』というレギュレーションを作るだけでもいいと思います。お客さんに魚を釣らせることと海を守ることは、同じだと感じていますし、その両方が僕の仕事です。
家内のカフェもオープンして10年が経ち、暮らしも安定してきました。釣りが好な一心で西表島に来て、本当によかったと思います」