取材・文◎フィッシングカフェ編集部 写真◎隈 良夫、狩野イサム
朝日新聞の記者として釣魚欄を担当していた松崎明治は、学究的姿勢で釣技研究に取り組み、渓流から沖釣りまで広範な分野の釣りについて、詳細で膨大な情報をまとめ上げた人物だ。『釣技百科』(朝日新聞社)や『写真解説・日本の釣』(三省堂)など、昭和の釣りを当時のハイテクともいえる写真技術と図版で体系的に記録し、その複雑な釣りの技術をわかりやすく、一般に伝えた功労者でもある。
そして、昭和15(1940)年に迫った東京オリンピックに向け、世界に誇る観光資源としての「日本の釣り」に注目し、当時の釣りを知る大きな手がかりとなる英字冊子『ANGLING IN JAPAN』を制作した。
「松崎明治の所蔵した釣り関連書籍、魚類関連書籍を一堂に展示する鹿児島大学付属図書館内にある『松崎文庫』には、現在、蔵書が約300冊、雑誌が約300冊、計600冊ほど展示されています。松崎さんの著書で代表的なものに『写真解説・日本の釣』(昭和14年刊)、『釣技百科』(昭和17年刊)があり、これらは釣り本の古典と呼ばれています。
釣り雑誌に寄稿されたものを読むと飛びぬけて多いのは、釣魚に関するものです。気軽な読み物風の記事やエッセーもありますが、基本的には非常に学者肌というのでしょうか、釣りというものを科学的に捉えているのが特徴です」
「松崎文庫」設立時の責任者であり、松崎明治研究の第一人者である、鹿児島大学名誉教授の不破茂氏はそう語る。
松崎明治は、鹿児島県の知覧四浦の一つ、松ヶ浦の海運商・松崎屋(屋号「やまや」)の三代目として明治31(1898)年に生まれた。当時の松崎家は、「西の海が干上がっても、やまやん(松崎家)は干上がらぬ」と言われたほどの豪商であり、「松ヶ浦から知覧まで他人の土地を踏むことなく行けた」ほどの大地主だった。幼年期・少年期は、目の前の海が遊び場で、潜って魚を突いたり、磯で魚を釣りながら過ごしたようだ。
大正9(1920)年に旧制川辺中学校を卒業し、早稲田大学商学部に入学。大正13(1924)年に卒業するが、さらに早稲田大学文学部に再入学し、昭和2(1927)年に哲学科を卒業する。不破氏は、「この経歴を見るだけでも、松崎家の財力は推して知るべしだったのではないか」と言う。
卒業後は、東京朝日新聞社(現・朝日新聞社)へ入社。文化部に籍を置き、美術欄と『アサヒグラフ』の担当を任せられる。2年後の昭和4(1929)年には、文化部・釣魚欄の担当となり、その後、先ほど記した『釣百科』『釣技百科』の他に、日本初の釣り写真集ともいうべき『写真解説・日本の釣』(三省堂)を昭和14(1939)年に刊行する。
「松崎明治が新聞記者だった昭和初期は、釣りは庶民の娯楽としてとても人気となっていました。各新聞社も『釣り欄』を充実させ、部数確保を狙っていたと思います。特にアユ釣りは人気があり、解禁日の河原は釣り人の肩が触れ合わんばかりの混雑だったようです。また、タイ釣りやアジ釣りの乗り合い舟が出現したのもこの頃でした」
そうしたなかで、松崎明治が担当する東京朝日新聞と、佐藤垢石(さとうこうせき)が担当する報知新聞の釣り記事は、釣り人に強く支持されていた。しかし、松崎明治と佐藤垢石の釣り情報に対する表現は明らかにスタンスが異なっていた。
「佐藤垢石は、その名前から明らかなように、アユ釣りを得意として釣り記事を書くようになったため、釣果を主体に釣りの雰囲気を捉え、読者にアプローチしていました。そして、記事はやや誇張的で、佐藤垢石の署名原稿となっています。一方で松崎明治は、釣りを漁として捉えていました。釣りは魚を採捕する技術であるとして、釣り場や釣果を客観的に記述しており、淡々と釣りに関する情報を記事にしています。そのため、彼の名前が記事に出てくることはありませんでした」と、不破氏は言う。
その客観性のある捉え方は『写真解説・日本の釣』という写真集にも通じている。主観的な旅情や雰囲気、気分など情感に訴える手法を省き、釣り・漁を客観的なスタンスで捉えるため、釣り方や仕掛け、道具仕立てや餌の付け方まで、細かく写真によって記録されている。対象となるのは、遊び釣り、職業釣り、さらに少年のフナ釣りや旦那衆の粋な遊びだったタナゴ釣りなど、掲載された写真166枚の中身は非常に多岐にわたる。また釣りの技術は、土地や対象魚によって異なり、地方ごとに独自性がある。それを写真で記録することで、各々の特徴がよく伝わるとの意図が、はっきりと読み取れるのだ。
昭和10年代、カメラ自体が庶民には手が出せない超高級品であり、さらに数年間で撮りためた約7000枚の膨大な量のフィルムを確保するのは、並大抵のことではなかっただろう。
この写真解説という手法は、松崎明治が東京朝日新聞社で文化部の美術欄を担当し、『アサヒグラフ』の発刊に携わったことも、大きなヒントになっていたのではないだろうか。そして、海外から訪れる人に「日本の釣り文化や技術を正確に伝える」ためには、写真は最短でとても都合のよい手法だったといえる。その結果、『写真解説・日本の釣』が刊行された翌年に『ANGLING IN JAPAN』が発刊されたのだろう。
この冊子は、幻に終わった東京オリンピックによって訪れる欧米人に向け、旧鉄道省のツーリストライブラリーシリーズの一冊として発刊されている。日本がオリンピック開催を返上したのは、昭和13(1938)年。すでにこの冊子の発刊の意味は、失われていたはずだ。それでもなお、松崎明治を含む多くのスタッフが発刊に踏み切った理由がなんだったのか。今となっては知る由もないが、ただ言えることは、松崎明治が数年にわたって日本中を歩き記録した釣りの写真や取材記は、日本という国の自然の豊かさや文化の深さ、それを愛でる心を世界にアピールするには、格好の素材だったということだ。
発刊から80年、この冊子を手にすると、アジア初のオリンピック開催によって大きく扉を開け、“釣り”を日本の新たな観光資源とする新しい発想にも驚くが、日本の釣り文化の奥深さが、ひしひしと伝わってくる。そして、改めて現在の日本を見渡して思うのは、「今でも十分、この国の釣りは素晴らしい!」と、気づかせてくれることだ。