2020
08.07
獏釣伝 連載第4回
「巨大ニジマスは、毛鉤の向こう側」

「北海道の野生化したニジマスの強烈な引きを体験すると病みつきになります」と、作家・夢枕獏さんは言う。
アラスカやカナダ、ニュージーランドなどニジマス釣りの本場を体験してきたが、北海道のニジマスも本場に負けず劣らず、釣り人たちを虜にするのに十分な素質がある。
しかも、北海道のなかでも野生化による地域特性が顕著に現れるから面白いとも言う。
今回獏さんは、大雪山系の三国山に源を発しオホーツク海へ流れ込む初夏の常呂川(ところがわ)で、体高のある巨大ニジマスを狙って毛鉤を投げた。

「これまでに十勝川の上・中流域、天塩川下流、屈斜路湖、阿寒湖、尻別川など、北海道のさまざまな地域で野生化したニジマスたちに遊んでもらいました。けれど、この常呂川では、ニジマスには出会っていないのです。今回はぜひ、できれば大きいのを一尾!」と夢枕獏さんは、ガイドにラインを通しながら珍しく力を込めて言った。
 獏さんが常呂川を訪れたのは今回で2度目。1度目は2016年に常呂川河畔の町、置戸町(おけとちょう)の開町100周年、置戸町立図書館開館10周年の記念講演会で訪れたそうだが、講演会は真冬の1月開催。ニジマス釣りがシーズンオフのため、網走湖でワカサギ釣りに興じたのだが、今回は念願の釣行であり期待が大きい。

河岸まで流水が押し寄せる常呂川。遡上するにも少々苦労する。

 常呂川は、大雪山系の十勝、石狩、北見の分水嶺となる三国山(標高1541m)の山間部を流下し、置戸町勝山で仁居常呂川(にいところがわ)と合流した後、置戸町(おけとちょう)、訓子府町(くんねっぷちょう)。さらに北見市内を流れ無加川と合流し、常呂町からオホーツク海に注ぎ出る、流路延長120kmほどもある一級河川だ。流域面積は広く、約1930㎢もある。
 いくつもの枝沢が集まって支流になり、支流が流れ込んで本流になるのだが、その枝沢から全体の面積を「流域面積」と呼び、数多くの枝沢や支流の流れ込みを持つ仁居常呂川や無加川のような川を支流とする常呂川の流域面積は、広大なものになる。
 また、上流部にある鹿の子ダムまで河口から約100km以上もの間に、境野堰堤と日の出堰堤の2カ所しか川を遮る人工物はなく、その2カ所の堰堤には立派な魚道が設けられ、管理も行き届いている。そのためアメマスやサクラマスをはじめ、カラフトマスまで遡上し、そうした稚魚たちを餌にニジマスも巨大化するという。これほど魚類に優しい河川は、北海道のなかでも珍しいといわれている。

ルースニングで釣ったエゾイワナ。常呂川も置戸町近くの上流部になると、アメマスのほかに陸封型のエゾイワナ。さらに上流ではオショロコマも釣れる。

「昨日、地元の釣りクラブの方から、『境野堰堤の上流で、今年も春に70㎝を超えるニジマスを釣りました』と、聞き捨てならない話をうかがいました。下流に走られて十数分かけて浅瀬に持ち込み、頭にランディングネットを被せるようにして、はみ出した尾っぽを掴んでやっと釣り上げたそうです。写真を見せていただきましたが、かなり体高がありましたね」と獏さん。
 そして、話し終えるや否や大物への期待を込めて、まずは大きなカディスを上流から流心脇に放り込んだ。しかし、何度流しても意に反して反応がない。

獏さんの北海道用フライボックス。ニンフは派手で重く、ドライフライは視認性が高く、テンカラ毛鉤も混じっている。見た瞬間に「釣ってやろう」という意気込みを感じるラインアップだ。

 それでも獏さんは、あらゆる想像力を駆使して、流れ込みの脇の筋、緩やかな開き、岩の横の溜まり……と、ニジマスが出そうなポイントを次々と攻めてみるが、魚たちは沈黙を守り、毛鉤はむなしく下流へと通り過ぎる。
「ならば、ドンと沈めてみましょう」と、かなり重たいショットをかまして、根掛かりを恐れず底を引きずるようにニンフを流すが反応はない。
「ちょっと水温が低いのかなぁ。移動しましょう」と、フィッシングガイドの澤田耕治さんは、最初のポイントは諦めて、やや増水気味の太く強い流れを横切り上流へと移動する。

獏さんは、座り仕事の作家とは思えないほど、強い流れでも慎重にガンガン渡渉してしまう。若い頃に登山で鍛えた足は健在で、たっぷりと筋肉貯金があるようだ。

 獏さんの北海道での釣りを20年近くサポートしてきたという澤田さんは、初夏から夏にかけては河川や湖でのニジマスやアメマス釣り。真夏には道南のアユの友釣り。秋になれば忠類川(ちゅうるいがわ)や道東沿岸でのサーモンフィッシング。そして、厳寒期は氷点下20℃近くまで冷え込む氷上のワカサギ釣り、寒風に荒れる積丹半島のイタマス(サクラマス)の沖釣りなど、獏さんの要望に合わせて、さまざま釣りのアレンジを行ってきた。
 そうした二人の信頼関係が、行動の一挙手一投足に現れており、常呂川も阿吽の呼吸で釣り上がっていく。

ナチュラルにドリフトさせても反応はなく、竿先を震わせながら誘うフラッタリングが、この日のヒットパターンだった。

「獏さん、今度はカディスを流すだけではなくて、フラッタリングで誘ってみましょう」と、澤田さんはロッドを握り、軽くフライを流して要領を説明する。
 じっとその様子を見ていた獏さんは、針の大きさで6番ほどの巨大なカディスを対岸の上流方向、太い流れの向こう側へ豪快にキャストする。着水した大きなカディスは、派手に優雅にドリフトし、流れきったところで竿先を震わせながら流心をまたいでこちら側に引かれてくる。
 これがフラッタリングというテクニックで、直訳すれば「振動」「羽ばたき」。水生昆虫の水面での羽ばたき行動や、産卵時などの浮遊行動を真似た誘い方だ。

小ぶりだがランディグネットの中で大暴れするニジマス。

 獏さんは2度、3度と同じように誘いながら引いてくると、やっと毛鉤に気づいたのか重い流れの中で銀色のシルエットが煌めいた。そして、キラッと急浮上したかと思うと間髪入れずに毛鉤を咥え込んだ。見れば手のひらサイズのメスのニジマスだった。
「予定よりだいぶ小さいけど、誘って喰ってきたのはうれしいなぁ」
 獏さんはニジマスを丁寧に流れに戻しながら微笑んだ。

生後半年にも満たないヤマメと、少々貫禄の出てきたアメマス。

 その後も場所ごとに、重たいショットをかましたニンフィングとカディスのフラッタリングを駆使して、エゾイワナやアメマス、ヤマメ、大物ではなかったがニジマスと常呂川4目釣りを達成。そして、納竿寸前、獏さんの巧妙な誘いに毛鉤が何者かに吸い込まれた。
「うおおおおぉー! かなり大物ですね。ちょっとすごいかな」と叫びながら、獏さんが魚と一緒に下流へ走る。6番ロッドは胴から曲がり、巻き上げるそばからラインが引きずり出される。魚体は確認できないが、大物ニジマスかアメマス……いや、ひょっとするとイトウかもしれない。そして、2~3分のやりとりの後、対岸の強い流れに乗られて12ポンドのナイロンラインが、あっけなく切られてしまった。

ダウンストリームにフライをキャストしてからのフラッタリング。

 そのラインの切り口を手に取った澤田さんが言うには、常呂川ではイトウの話はほとんど聞かないので、巨大なアメマスかもしれない。アメマスには小さな鋭い歯があるため、毛鉤が飲み込まれて切られてしまったのだろうと。
「去年は青森県の赤石川で、釣ったアユに遡上してきたサクラマスが食いついてきて大事件になりました。今年は最初から大物を狙っていましたが、相手の方が一枚上手でしたね。でも、魚に引きずり回されるのは、釣り人冥利に尽きます。
 最近は、そこそこの釣りでも十分楽しんできましたが、大物との出会いは釣りへの闘争心が甦ります。改めて『北海道の釣りは油断できない』と心に刻まれました」
 獏さんは、おあずけとなった常呂川の巨魚へ悔しさをにじませながら、清々しく笑った。

夢枕 獏(ゆめまくら ばく)作家

1951年神奈川県小田原市生まれ。1977年デビュー以来数々の作品を発表し、『陰陽師』(1988年第一作刊行・2001年映画化)をはじめ、数多くの人気シリーズを持つベストセラー作家。1989年「日本SF大賞」、1998年「柴田錬三郎賞」、「日本冒険小説協会大賞」、2011年「泉鏡花文学賞」、「舟橋聖一文学賞」、2012年「吉川栄治文学賞」、2016年「小学館児童出版文化賞」など受賞歴多数。

取材・文◎編集部 写真◎知来 要、狩野イサム

連載企画