2020
04.10
獏釣伝 連載第3回
「天城の渓谷で天女魚を想う」

約60万年前の火山活動によって形成された天空の御山、天城山(あまぎさん)。
この天城の山々があることで伊豆半島の降雨量は増え、幾筋もの河川が流れ、豊富な水量を背景にサツキマスの陸封型である天女魚(アマゴ)が、太平洋側の北限分布地域として数多く生息している。
急峻な地形をものともしない朱点の薄いヤマメのようなアマゴは、伊豆半島の渓流魚の宝ともいえるだろう。
そこで獏さんは可憐なアマゴとの出会いを求め、天城山麓の源流に足を踏み入れた。

 伊豆半島・天城山麓の渓流は首都圏からも近く、型は小さいが美しいアマゴが釣れるポイントが数多く存在する。天城山を構成する伊豆半島最高峰の万三郎岳(1405m)を筆頭に、1000mを超える峰々が東西に連なり、春から夏には太平洋からの湿った空気がこの峰々にあたることで、上昇気流が生まれ雨雲を発達させる。そのため天城山の年間降水量は4000mmを超え、山頂付近は冬になると積雪することも珍しくない。

入渓地点で出会ったメスのシカ。伊豆半島はシカやイノシシの生息数が多く、河畔にはその痕跡がよく見られる。

 その多量の降水によって真夏でも水温の低い河川が存在し、特に東海岸の急峻な地形は、海岸線から車でわずか10分ほど上流に移動するだけで、アマゴの生息域となる渓流もある。また天城山北部では、多くの支流が冷川や大見川にそそぎ、やがて狩野川へと合流し、駿河湾へと流れ込む。狩野川中流域は、アユの友釣りのメッカとして日本全国に知られているが、ダムの無い狩野川水系はサツキマスの遡上も見られる日本有数の河川でもある。
 今回獏さんが訪れたのは、相模湾に流れ込む東海岸の小渓流。前日は雨のなか北川温泉の防波堤で小魚と戯れ温泉で汗を流し、朝食に伊豆名物の干物に舌鼓を打った後、渓流へと足を延ばした。

北川温泉から望む伊豆大島。雲間から差す午前の光はとても幻想的だ。この後、天気はどんどん良くなっていった。

 獏さんは仕掛けを手に持ち、「今度は、イワナが来ました」と、ヒレのピンとした正真正銘のニッコウイワナを差し出す。
 その日竿を出したのは、万二郎岳(1299m)南斜面の谷から発する渓流で、相模湾に面した河口から車で15分から20分ほど、急峻な林道を登った場所だ。海抜約700mの地点から入渓し、入渓当初はやや大きめのアマゴが釣れ、次にイワナが混じるようになった。
 この渓流の上流には、沢をまたぐように林道があり、その林道の周囲には小さなワサビ田が点在する。そのワサビ農家が、かつて害虫駆除を目的にイワナやアマゴを放流し、敷地から逃げ出したイワナが、本来生息しないはずの場所でささやかに繁殖しているのだ。伊豆半島は古くからワサビ栽培が活発で、なかでも中伊豆地域ではワサビ田の数に比例してイワナの繁殖している川が多いという。

かなり立派な野生化したニッコウ系のイワナ。天城山の急峻な地形と深い淵が幸いし、場所にもよるが夏の水温上昇を上手くかわしているのか?

毛鉤を投じてみるとイワナの稚魚も釣れ、限られた場所だが繁殖が見られた。

「イワナとアマゴは同じサケ科ですが、イワナ属とサケ属で異なりますよね。一般的には、アマゴよりイワナの方が冷水を好み、同じ川でもより水温の低い上流部にイワナが生息するはずなんだけど、ここでは、強い流れの脇ではアマゴが食ってきて、流れの弱い淵際や巻き返しでは、イワナが食ってきます。結果として餌の捕食地点でイワナとアマゴ棲み分けられているという川は、僕にとって初めての経験ですね。なんだか複雑な気分だなあ……」と獏さんは言う。

獏さんは、あるときは立ち木となり、またあるときは岩に化ける。そして、「渓流では忍者のようにならないと」と、河畔での動きはゆっくりだ。

 獏さんは、釣ったイワナをそっと水に戻すと、息を整え姿勢を下げ、抜き足差し足で木立の影に戻り、渓谷全体を見わたしながら、次に振り込むポイントと自分の立ち位置を念入りに確認している。餌はブドウ虫。その仕掛けを手に持ち、餌の振り込み点を見つけると、今度は岩の陰に張りつくように体を寄せ、アップストリーム(上流から下流への直線の流れ)に餌を流す。そして、少しずつポイントをずらしながら何回か餌を振り込み、巻き返しの渦に餌を落とした瞬間だった。目印がツンツンと微妙に動き、同時に手首だけで合わせを入れると竿先に荷重がかかり、竿が弧を描いた。

体高もあり顔つきも鋭く、伊豆半島のアマゴの特徴が表れた個体。尺近いかなりの大物だ。

「今度はちょっと大きいかな」と、釣り上げてみれば27、28㎝ほどのアマゴだった。
 前日の雨が活性を上げたのか、淵から浅瀬に開く場所では10㎝にも満たないアマゴやイワナが立て続けに躍り出し、淵の下の泡に餌を入れれば、勢いよく20㎝ほどのアマゴが食いつく。イワナも時折混じるが、伊豆半島はやはりアマゴの川だ。獏さんの竿のしなりを見ているだけで、その差は歴然としている。

体長10㎝にも満たない孵化して半年ほどのアマゴの稚魚。稚魚と出会えると「この川は大丈夫だ」と安心する。

 上流部とはいえ、真夏になると20℃近くまで水温が上がる伊豆半島の河川環境のなかで、長い年月をかけて適応し、水生昆虫やヨコエビなどを旺盛に捕食するアマゴたちと、最上流部で人為的に放されたイワナでは、竿に伝わる感触が大きく異なると獏さんは言う。
「伊豆半島でアマゴは何度も釣っていますが、ここのアマゴは朱点の色が薄いのが特徴です。しかも、今回釣れた大きめのアマゴは体高もあり、顔つきが精悍でした。その体つきを見ていると、天城山麓の急峻な地形を生き抜いてきたDNAが、脈々と息づいているのがわかります。やはり伊豆の渓流魚はアマゴですね。釣り人は多少欲張りな面もありますが、その土地に根ざした魚と遊んでもらうのが一番です」

夢枕 獏(ゆめまくら ばく)作家

1951年神奈川県小田原市生まれ。1977年デビュー以来数々の作品を発表し、『陰陽師』(1988年第一作刊行・2001年映画化)をはじめ、多くの人気シリーズを持つベストセラー作家。1989年「日本SF大賞」、1998年「柴田錬三郎賞」、「日本冒険小説協会大賞」、2011年「泉鏡花文学賞」、「舟橋聖一文学賞」、2012年「吉川栄治文学賞」、2016年「小学館児童出版文化賞」など受賞歴多数。

取材・文◎編集部 写真◎知来 要、狩野イサム

連載企画