「赤石川のアユ釣り解禁日に、もうかれこれ4年通っています。毎年僕の年間釣行スケジュールに組み込まれてしいて、その理由はやっぱりこの金鮎の味かな」と遠火で丁寧に焼かれた金鮎の塩焼きに箸をつけた。
その獏さんの言葉を補足するように、獏さんの友人で「日本鮎毛バリ釣り団体協議会」会長の澤渡要さんが語る。
「酒のおつまみのことを“酒の肴(さかな)”と言いますよね。その語源は、魚が酒に合うからだと思うんです。日本は魚の種類も料理も多様で、私もこれまでに海の魚や川の魚など、数えきれないほど魚料理を堪能してきました。
そのなかで、酒の肴として私が一番にあげるのはアユです。それもスーパーで買ってきたようなアユではなく、“自分自身で釣ったアユ”です。
なかでも赤石川の金鮎こそ、一番だと断言できます。その素晴らしさは、私の人生を賭けてもいいくらいのアユです」
これまで日本各地でアユを味わってきたお二人が「一番だ」と断言する理由は、赤石川の地理的な条件が大きく関係しているのではないだろうか。
赤石川は、秋田県との境界にある青森県西津軽郡鯵ヶ沢町南部の二ツ森付近に源を発し、鯵ヶ沢町の西側を北に流れ、日本海に注ぐ二級河川だ。流路総延長44.6kmのうち、河川法に基づく二級河川の指定区間は34.7kmである。
上流部は世界遺産にも登録されている白神山地の中にあり、国有林の保全地域として保護されたブナの原生林が生い茂っている。その原生林から湧き出る、貴重な清流が赤石川だ。
世界遺産の白神山地中心部から外へ向かう緩衝地帯には、発電取水用に赤石ダムもあるが、1987年に発足した『赤石川を守る会』の活動により、河川維持流量が安定していることも、この川の健全性の一翼を担っている。しかも、アユや他の渓流魚が遡上する夏期は、赤石川本流に3倍量の放水が行われており、アユが好む珪藻類などの生育を助けているという。
7月1日の解禁日は平日だというのに、早朝から竿を出すアユ釣り師で賑わっていた。今回の宿『熊の湯温泉旅館』の近くに止めてある車のナンバープレートを見ると、地元の「青森」や「秋田」が最も多い。しかし、東京都の「足立」や愛知県の「尾張小牧」という、遠方から訪れている釣り師もいる。さすが「赤石川の金鮎」とうなずいてしまう。
獏さんと林家彦いちさん(以下:彦いちさん)は、午前7時に朝食を済ませ、やや出遅れ感を覚えながらも身支度を整え、アユ毛鉤釣りの一級ポイントである第一堰堤下に入る。アユ毛鉤釣り初心者の彦いちさんを指導しながら、釣りを行うためだ。
釣り始めて2時間ほど経ったころには、獏さんの丁寧な指導の成果が功を奏し、彦いちさんのタモ網でアユをすくう回数と笑顔が多くなってきていた。アユの他、体高のあるヤマメも釣り上げご満悦だ。また時間を追うごとに、並んで釣る他の釣り人たちの取り込みも忙しくなり、アユの型も良くなっていった。
その穏やかで平和な時間の中に突如、「おーっと? なんですかねー、あっ大きい!」と、獏さんのやや慌てたような声が上がった。
見れば獏さんは、アユ竿がのされそうになるのを必死にこらえながら、竿を立てようとしている。毛鉤で掛けたアユを、なんと遡上途中のサクラマスが丸呑みしたのだ。
獏さんは、長いアユ竿を巧みに使い、無理に寄せずに弱らしてはいるものの、何しろアユ毛鉤仕掛けのハリスは0.4号と細い。周囲の釣り師は竿を上げて息を飲み、その様子を眺めている。しかし、3~4分はなんとかこらえていたが、サポートしようとランディングネットを持って近づいた人の動きに驚いたサクラマスは一気に走り、ハリス切れする結果となってしまった。
「うーん、残念。もう少しでした。アユを取り込もうとしていたら、突然“ガツン”ときて、ふっと軽くなったのですが、もう一度“ガツン”ときました。僕のアユを2匹持っていかれたのかな。かなり弱らせたのですが、サクラマスはサクラマスですね。僕にとっては、まさかの大事件でした」と、釣り師心を少々乱されながらも獏さんは、新しい仕掛けを結わえ直す。
彦いちさんは、その獏さんの横に立ち「イヤー獏さん、いいもの見せていただきました。アユを毛鉤で釣るということは、奥が深いですね。話を聞くと50㎝を超えるようなアメマスも遡上してきて、大暴れするそうですね。私なんざアユ毛鉤でアユを釣って、その生きたアユを餌にサクラマスやアメマスなどの大物を釣る! なんて色気が出てきやした。
赤石川は日本海から遡上する天然アユだけでなく、ヤマメやイワナ、サクラマス、そして北海道のようにアメマスまで、釣り人を魅了する渓流魚たちが、のびのびと暮らしているのがわかりました」と、赤石川の持つ潜在的な力に感動している。
アユ毛鉤に猛然とアタックし、仕掛けを台無しにするヤマメ。せっかく釣り上げた金鮎を横取りするサクラマス。アユを釣りたい一心の獏さんにとってこの日は、悔しくもうれしい大事件となったわけだ。
ふと気づけば朝からの気まぐれな雨は止み、西の空が明るくなっていた。川面からは霧が沸上がり、河畔を覆うブナの葉を優しく包んでいる。どこからか“ヒュルルルルー”とアカショウビンの鳴き声が聞こえたのを合図に獏さんは、「さあ、気を取り直して再び金鮎です」と立ち上がった。
林家彦いち(はやしや ひこいち)落語家
1969年鹿児島生まれ。大学中退後、初代林家木久蔵(現・林家木久扇)へ入門。前座名「きく兵衛」。1990年初席、池袋演芸場にて初高座「寿限無」。1993年二つ目昇進し「林家彦いち」に改名。2000年第10回「北とぴあ落語大賞」、「NHK新人演芸コンクール落語部門大賞」、2002年春真打昇進。2003年「彩の国落語大賞殊勲賞」、第九回「林家彦六賞」。2006年「彩の国落語大賞」など受賞多数。
夢枕 獏(ゆめまくら ばく)作家
1951年神奈川県小田原市生まれ。1977年デビュー以来数々の作品を発表し、『陰陽師』(1988年第一作刊行・2001年映画化)をはじめ、多くの人気シリーズを持つベストセラー作家。1989年「日本SF大賞」、1998年「柴田錬三郎賞」、「日本冒険小説協会大賞」、2011年「泉鏡花文学賞」、「舟橋聖一文学賞」、2012年「吉川栄治文学賞」、2016年「小学館児童出版文化賞」など受賞歴多数。
取材・文◎編集部
写真◎足立 聡