2017
06.23
[ 56号掲載 ]
『砂の海を釣る』(その1)

ノンフィクション小説の気鋭として知られる作家、西木正明氏。現在、『Fishing Café』で掲載中の「海鳴り山鳴りの日々」は、自身の若き頃の釣り冒険釣行を題材にした小説です。今回からの新章は、ご自身の幼少時代の釣りの話。そしてフライフィッシングを取り組みはじめてから、オーストラリア・タスマニア島での釣りのエピソードをフジテレビの人気アナウンサーとして活躍した、益田由美さんの朗読でお伝えします。

海鳴り山鳴りの日々

『砂の海を釣る』(1)

西木正明


 自分事で恐縮だが、筆者は生来飽きっぽい性格で、さまざまな趣味や道楽に手を染めては挫折してきた。そんな取り留めのない人生の残骸が、多数身辺に転がっている。

 堅物だった父親の数少ない趣味のひとつだった、写真好きの遺伝子をそのまま受け継いで、今となっては珍品ともいえる写真機材を手元においてある。コダックレチナ、六櫻社(後の小西六。現コニカミノルタ)製のベスト判パーレットなど、フィルム時代の人気機種で、いまだ現役である。これらのカメラで実際に、平凡パンチなどのグラビア写真を撮影したこともある。

 ちなみにレチナは蛇腹付きの三五ミリ、別称ライカ判カメラ。パーレットは米コダック社製のベスト判カメラ単玉ベスト、通称ベス単をフルコピーした国産機である。

 単玉とは、張り合わせなしの一枚レンズのことで、虫眼鏡を装着したカメラを想像していただけばわかりやすいだろう。

 で、ここからが本題だが、釣り好きも父親ゆずりの道楽なのに、親父が愛用した釣り道具はなにひとつ手元に残っていない。すべて餌釣り用の竹竿で、糸や針などもそれに見合うものだった。

 ターゲットは、家兼診療所から一キロ足らず東の山裾を流れる、幅二メートル程の沢に生息するイワナとヤマメ。

 父は外科医で、戦前は親戚筋にあたる東京赤坂の前田外科病院の勤務医だった。戦後南洋の玉砕島パラオから奇跡的に生還してからは、故郷秋田の農村で医院を開業した。

 当然ながら外科以外の患者も多く、内科や小児科はもちろん、苦手な産婦人科の患者まで対応する医者にならざるを得なかった。

 結果的に大日本帝国海軍の歌の一節、月月火水木金金という診療態勢が日常化した。そんな日々の時間の流れの中で、患者さんが途切れた時間帯を狙っての沢釣りが、彼にとっては唯一無上の楽しみだったようだ。

 とはいえ、悟りを開いた仙人のように、ひとり寂しく釣るのは嫌だったらしい。

 長男坊主の筆者が家でごろごろしている週末の午後、どこかで診療の空き時間が見つかりそうになると、すぐさま若い美人の看護師さんが、伝令となって飛んできた。

「おとちゃんが、ミミズ掘っておけって」

 田舎の古い家なのでかれこれ二〇〇〇坪、約六六〇〇平方メートルの敷地内に、生ゴミ専用のゴミ捨て場があった。これがミミズの巣窟で、すぐに数十匹のミミズを確保できた。

 ミミズ入りの空き缶を、カッコベなる木の幹を薄く削いで編み上げた籠の底に入れる。あとはあらかじめ仕掛けを結びつけてある竿を手に、沢をめざすだけだ。

 沢べりに到着後、一〇〇メートルほどの間隔をあけて釣り下る。水中でくねくね動くミミズは、イワナやヤマメを釣るには最強のエサで、小さな滝壺やカーブの外側にできる深場を探ると、かならずと言っていいほど当たりがあった。

 時には三〇センチを越す尺イワナやヤマメが、ふたり合わせて四、五匹も釣れることも少なくなかった。夜、これらを肴に晩酌を楽しむ親父の顔をみていると、酒など飲めない自分までが幸せな気分になれた。

 このような環境で育ったせいか、長じて社会人になって、硬軟取り混ぜた道楽の大半に挫折しても、釣り竿だけは手放さなかった。

 四十歳で会社勤めに挫折。物書きとして世界のそこかしこをうろつきはじめた。

 その十年ほど前の一九七〇年代冒頭、日本ではまだ少数派だったフライフィッシングに手を出した。フライは荷物に制限がある旅に最適のメソッドである。なによりも重量制限に対応しやすい。

 以来国内海外を問わず、旅に出る時はかならずフライ用の道具一式を持参する。かれこれ半世紀、多くの失敗とわずかな成功を繰り返してきたが、釣りだけは挫折していない。

 そのわずかな成功例のひとつが、物書きになって間もない、一九八〇年一月から二月にかけて、真夏のオーストラリアを車で走り回った時の釣りである。

 ことの発端はその前年秋口、当時まだ物書きとして駆け出しだった筆者に、声をかけてくださった出版社幹部のひとことだった。

「来年わが社は創業○十年を迎える。これに関連して、いくつかのイベントをやるが、手伝ってくれないかね。具体的には海外に行って、おもしろい紀行文を書いてほしいんだ」

 四十代の入り口という時期、先の見通しも立たぬまま、十数年間お世話になった出版社を辞めて物書きになった。幸運にもデビュー作でノンフィクション系の賞を頂いたが、その程度で一人前になれるほど甘い世界ではない。出版社からのお誘いは、まさに干天の慈雨であった。

 その海外取材の概略は、次のようなものであった。

「未発売のスポーツカーと、四輪駆動のトラックをそれぞれ一台ずつ用意する。それでオーストラリア全域を走り回って、読者が爽快な気分になるような紀行文を書いてほしい」

 新米の書き手には、望外ともいえる提案だった。しかしなぜ自分なのか。そんな脅えにも似た感情が表情に出たのだろう。

「君は大学探検部出身で、この程度のことには慣れてるだろ?」

あっというまに話がまとまり、次の日筆者は、出版社サイドから同行する記者とカメラマン、自動車メーカーの担当者との打ち合わせの席についていた。

 具体的にどうするかという下問に、答えて言った。

「オーストラリアは季節が日本と逆です。実施予定の一月から二月にかけては真夏で、しかも雨期です。その悪条件の中、当初は東海岸でグレートバリアリーフの爽快な景色を堪能し、その後砂漠地帯に乗り入れて、雨期の砂漠で悪戦苦闘しながら、アボリジニなどの先住民と交流、最終的に風光明媚な西海岸側に抜ける」

出版社側は、この提案をいとも簡単に受け入れた。

「よし、それでいこう」     

 翌年一月の正月明け。     

 未発売の、しかもこの手の荒れ地走行には不向きと思われるスポーツカーで、世界屈指の難所と言われるオーストラリア内陸の砂漠を横縦断する旅が始まった。

 出発点は世界最大の珊瑚礁グレートバリアリーフの観光拠点、タウンズビル。当初は海岸ぞいに南下、ブリスベンからシドニー、キャンベラまでは舗装道路走行。ここから先はオーストラリアアルプス、スノーウィ山脈の谷間を走る悪路になる。この国の最高峰、標高二二三〇メートルのコジアスコ山の頂上付近には、夏でも雪が残っている。

 その頂を見ながら走っていると、前方に魚を描いた大きな看板が見えてきた。

 看板の下部には英語で、

「この近くのユーカムビーン湖には、巨大なニジマスが生息しています」

 と、筆者の弱点を突くアジテーションが記されている。助手席にいるオーストラリア人ガイドに、詰問口調で問いかけた。

「この湖に立ち寄りたいのだが」

 ガイドは渋い表情になり、

「通りすぎました。ユーカムビーン湖はマレー川の支流トウマ川にできたダム湖です」

「そんなことはどうでもいい。戻ったら時間はどのくらいかかる?」

「最短でも四十分程度はかかります」

 そう言ってからガイドは、あらかじめクギを刺しておくといわんばかりに、

「日没前にアデレードに到着しないと」

「わかっている。でも、オーストラリア最高峰の麓にある湖はぜひ見ておきたい」

 現地滞在は三十分以内。時間限定で妥協して、ユーカムビーン湖のほとりに到着した。

 しぶしぶ写真撮影をはじめた、カメラマンたちから少し離れて釣り支度をし、水辺に立った。背後は深い森だ。少し立ちこみ、バックキャストに気をつけつつ釣りをはじめた。

 ややあって少し左方向に移動、フォルスキャストをした途端、全身を背後にひきずられるような反応があった。

 振り返って愕然とした。五メートルほど後ろで、ダチョウのような鳥が首を左右に振りながら、懸命に逃げ出そうとしていた。

「あ、西木がイミューを釣った」

 イミューはオーストラリアだけにいるダチョウそっくりの鳥で、大きさはほぼ人間と同じくらい。

 まずい。このままではイミューが窒息してしまう。なぜか理性的な判断が働いて、釣り用の折り畳みナイフを取り出し、イミューの首にからんでいるフライラインをカットした。

 自由になったイミューは、六、七メートルの長さのフライラインを引きずって、森の中に消え去った。

 いつの間にか側にきていたカメラマンが、「ガイドが言うには、この国の野生動物は保護が行き届いているので人間を恐れない。人間が水辺でごそごそやっているから見にきたところ、いきなり首になにかが巻きついて驚いたのだろう、と。でも、おもしろい写真が撮れたぞ」

 それからおもむろに、        

「しかしお前も好きだな。こんな砂の海のような大陸にまで釣り道具を持ち込むなんて」

 それから、さも恩きせがましい口ぶりになって続けた。

「ガイドいわく、このあたりの魚はすれていて簡単には釣れない。いい釣りをしたいのなら、タスマニアに行くしかないそうだ」

 そうか。タスマニアという手があったか。

 タスマニア島はメルボルンの南方約二〇〇キロ沖合の、北海道とほぼ同じ大きさの島だ。 島内のそこかしこにそびえる海抜一五〇〇メートル程度の山から流出する川には、ニジマスとヨーロッパから持ち込まれたブラウントラウトが生息する。

 世界の釣り師の間では、ブラウンの釣り場として有名で、筆者もその存在を忘れていたわけではなかった。だがこの旅の目的からして、タスマニアを舞台にしようと提案するのは、あまりにも見え透いている。そう思ってあえて無視したのだった。

 しかし恩きせがましい言い方ながら、カメラマンがあえてタスマニアを持ち出してくれた。

 こういう時に人間の本性が出る。ふだんから筆者は何事も自分の都合のいいように解釈する癖があるが、この時はそれが突出した。

 それでも多少ためらうそぶりをすると、カメラマンが筆者の脇腹をつついて、

「イミューまで釣ったお前だろ。行程にタスマニアを取り込んでも文句は出ないよ」

 やはり持つべきものは友達である。    

 この日の夜、食事の場でカメラマンが突然、こんな提案をしたのだ。

「つらつら考えたが、メルボルンまで来て、目と鼻の先にあるタスマニアに行かない手はない。日程的には砂漠に入ってからの悪天候などに備えた予備日が四、五日ある。うち半分を使ってタスマニアに行く手もある」

 日本の大学に留学経験があり、日本語に堪能なガイドが即座に反対した。

「だめです。今はオーストラリア内陸が雨期に入っており、砂漠を突破するには、雨の降り方しだいという大きなリスクがある」

 カメラマンが反論した。

「砂漠の雨がヤバイことは重々承知の上だ。しかし二日をタスマニアにまわしても、なお二、三日の予備日があるじゃないか」

 ガイドが筆者の顔を見た。日程に係る決定権はあなたにある。彼の顔にはそう書いてあった。

 筆者は無言のまま視線をテーブルに落としたままでいた。こういう時のもっとも卑怯なやり方である。

 そもそもタスマニア二日間という日程では本来の仕事はできない。車を持ち込むには、フェリーに頼らざるを得ず、移動のために往復するだけで、日程を使いつくしてしまう。

二日という日程で行くのであれば、車はオーストラリア本土に置き、人間だけが最小限の荷物を携えて空路で行くしかない。

 腹をくくって顔をあげて言った。     

「よし。タスマニアに行こう。ただし、車はここに置いていく。ホバートまで飛行機で行って、現地でレンタカーをかり、ホバート周辺を取材して、一泊二日で帰って来よう」

 座が一瞬静まりかえった。筆者の露骨な開き直りに言葉を失った。そんな感じだった。

 カメラマンが、薄笑いを浮かべて言った。

「ではそういうことで。写真的にはホバート周辺の牧場地帯と、川で水を飲んでいる牛のカットがほしい」

 このカメラマンも古くからの釣り仲間である。もしかして彼も、釣り道具一式を荷物の中に押し込んでいる可能性がある。そう思うことで、自らの独断専行を正当化した。

 時間に限りがあるので、タスマニア滞在中の現地ガイドの手配を、ガイド兼通訳に依頼した。彼はもう事情を完全に把握していて、黙ってうなずいた。

 二日後夕刻。筆者たちはタスマニア州の州都ホバート郊外の牧場にいた。

 目の前を、チョコレート色の水をたたえた牧場用水路が、ゆったりと流れている。

 筆者の脇に、タスマニアでの釣りを望むフライフィッシャーなら、知らない者がいないと言われるほど著名なガイド、ノエル・ジェットスンが立っている。

 度の強い眼鏡をかけた俳優のロッド・スタイガーという雰囲気のジェットスンが、無言のまま水面を見つめている。

 やがてぽつりと、「今、そこのカーブにブラウンが入った。大きめのドライフライを、そっと落とすと釣れるよ」

 だから、やってごらん。そういう勧めだったが、いきなり竿を振る度胸はない。

「ほんとにいるんですか」       

 ためらう筆者にうなずいて、また同じことを言った。

「そっとフライを落とすだけでいい。まず間違いなく釣れるよ」

 チョコレート色の緩い流れで、一見魚などいそうにない感じだ。しかし、もう疑問を呈するわけにはいかない。

 言われるままに大きめのアダムス・パラシュートを結んだロッドを手にして、一回だけのフォルスキャストで、指示されたカーブの外側付近に落とした。

 指示されたあたりより一メートル近くずれていたので、あ、これはだめだと思った。

 しかし、である。まるで陸上にいるジェットスンに命じられたように水面が盛り上がって、巨大な口がフライを飲み込んだ。

 5番ロッドが根本から曲がり、立てようとしても立たなかった。およそ十分以上もかかって体長六〇センチ前後のブラウントラウトをランディングし、すぐさま流れに返した。これがオーストラリアという砂の海で釣った一匹目の魚だった。

益田由美(ますだ ゆみ)

東京都出身。早稲田大学文学部卒業、1977年フジテレビ入社。『なるほど!ザ・ワールド』のリポーターとして世界各地を飛び回る。その後『リバーウォッチング』『晴れたらイイねッ!』『なるほど!ザ・ニッポン』『ちいさな大自然』を企画、プロデュース、出演。2015年フジテレビ定年退職。

西木正明(にしきまさあき)

作家
1940年、秋田県生まれ。
早稲田大学教育学部社会学科中退。
大学在学中は探検部に所属。平凡出版 ( 現・マガジンハウス ) 記者を経て作家として独立。
1980年『オホーツク諜報船』で日本ノンフィクション賞・新人賞を受賞。1988年『凍れる瞳』『端島の女』( 作品集『凍れる瞳』) で第 99 回直木賞を受賞。1995年『夢幻の山旅』で新田次郎文学賞を受賞。2000年『夢顔さんによろしく』で柴田錬三郎賞を受賞。

原作◎西木正明  朗読◎益田由美  画◎シノハツミ