2016
02.12
[ 52号掲載 ]
『浮草旅行の半世紀』(その1)

ノンフィクション小説の気鋭として知られる作家、西木正明氏。現在、『Fishing Café』で掲載中の「海鳴り山鳴りの日々」は、自身の若き頃の釣り冒険釣行を題材にした小説です。今回から新章として、『浮草旅行の半世紀』(その1)をフジテレビの人気アナウンサーとして活躍した、益田由美さんの朗読でお伝えします。

海鳴り山鳴りの日々

『浮草旅行の半世紀』』(その1)

西木正明


 仕事の間合いなどで、なにもせずぼんやりと釣りのことなどを考えている時、まず脳裏に浮かぶのは、なぜか晴天ではなく鉛色の空の下、同じく鉛色の川筋を黙々と流れ下っている風景だ。

 時折冷たい風が、甲高い音をたてて耳元を吹き抜ける。行く手の水面に無数のさざ波が立ち、れがひとつの塊となって右や左に動き、やがて消える。

 流れはいくつにも枝分かれして分流し、いずれが本流かを、一瞬のうちに判断しなければならない。

 間違って本流ではない流れに入り込むと、時には命を失う。テントや寝袋、熊脅しのショットガンなど、荒野での生活必需品を積み込んで流れ下っているラフトに、エンジンなどという野暮なものはついていないからだ。

 川上から吹いてくる風と川の流れそのものが動力なので、後戻りは絶対にできない。いわば帰らざる河、ザ・リバー・オブ・ノーリターン。

 動きだしたら最後、途中でやめたりひき返したりすることはまず不可能な、フロートトリップ(浮草稼業ならぬ浮草旅行)である。

 わたしにこの楽しさと辛さ、難しさを教えてくれたのは、およそ半世紀前の一九六五年の晩夏、当時義父だったエスキモーの、ウォルター・アウトウォーターだった。

 彼はキリスト教プロテスタントのカベナント派牧師という立場でありながら、アラスカの西端に突き出たセワード半島一帯では、知らぬ者無しのハンターでもあった。

 二度目の越冬開けのあの年の夏、わたしは彼の娘を日本に連れ帰るべく、当時彼らが住んでいたゴールドラッシュでできた町ノームに、小さな小屋を借りて住んでいた。

 あと十日ほどでノームを離れるという十月上旬、ウォルターがわたしにこう言った。

「明日は来るべき冬に備えるため、ターミンガン(蝦夷雷鳥近縁種の雷鳥)と、ブルーベリーを調達するために、クズトリン川というブッシュリバーを下る。お前もついてこい」

 アラスカでは、ブッシュという言葉の語彙は藪や灌木よりも、奥地や僻地という意味で用いられることがほとんどだ。

 クズトリン川は、セワード半島を北東から西南方向に流れて、ベーリング海に流入する流程八〇マイル(およそ一三〇キロ)ほどの川だ。わたしは翌朝まだ暗いうちに、アウトウォーター一家とともに、牧師が運転するトラックの荷台に乗せられて走り出した。

 目的地はノーム北方五〇マイル(約八〇キロ)ほどのところを、右手東方から左手西方に広がるベーリング海に向かって流れる、クズトリン川中流にかかる橋。

 ツンドラの中を北上する悪路を、約二時間かけて橋のたもとに到着した。

 トレーラーに乗せて引っ張ってきた、長さ二〇フィート(約六メートル)、幅五フィート(約一・五メートル)ほどの木造船をトレーラーごと川べりに降ろし、船をひきずり降ろして水に浮かべた。

 重いキャンバス製のテントに薪ストーブ、コールマン製ガソリンランタン、レミントン製二十二口径ライフル、熊よけの二連ショットガン、釣り具、寝具など生活必需品を船に積み込み、午前九時すぎに出発。

 食料は基本的に現地調達で、持参したのは前夜焼いた手製のパンだけ。

 水深のあるクズトリン川の川幅はおよそ五〇メートル。ややチョコレート色がかった重そうな流れに乗って下流をめざす。

 船首にパドルを手にしたウォルターが鎮座し、黙々と船を操って行く。細君や娘は船のほぼ中央に座り、船尾には小振りのパドルを持たされた私が、緊張しきって着座。

 両岸に広がるツンドラはすでに葉紅葉も終わり、ブルーベリーなどはどこにもなさそうな様子。なのに出発して十五分もたたないところで、ウォルターが右岸に船を寄せた。

「ここからはじめる」

 岸辺の柳の木に船をもやいながらそういうと、彼は二十二口径のライフルを手にして、岸辺の低い河岸段丘を上り、広大な灌木の中に足を踏み入れた。

「わたしたちは、ブルーベリーを摘みましょう。摘んだブルーベリーをこれに入れて、いっぱいになったらバケツに空けるのよ」

 細君がそう言いながら、わたしに大きめのコーヒーカップを手渡した。

 女子供と同じ仕事をするのか。そう思いつつも、操船にしろハンティングにしろ、自分はまったく無力であることに気がついて、わたしは女たちと共にツンドラに入り込んだ。

 一〇〇メートルほど離れた所で、ウォルターが灌木の中に座り込んでいるのが見えた。

 なにをしようとしているのだろう。いぶかりながらもその場にしゃがみこんで、ブルーベリーを摘みはじめた。

 葉紅葉が終わり、葉が褐色になった灌木のほぼすべてに、濃いブルーの実が鈴なりになっていた。市販のブルーベリーとは異なり球形ではなく、先端がややとんがった超小型の瓜か、ずんぐりとした茄子のような形状である。ひとつ口に入れてみた。次の瞬間、「お、これは」と声をあげてしまった。ただ甘いだけではなく、酸味がほどよく混じった、こくのあるおいしさである。

 突然、遠くで銃声がした。音の方向に目を向けると、つい今し方まで灌木の中に座り込んでいたウォルターが立ち上がり、銃を手にしたまま右方向に数十メートルほど移動するのが見えた。

 やがて立ち止まって上半身を折り、灌木の中に手を突っ込んで黒っぽいものを掴み出した。それを見て細君が叫んだ。

「あ、もう一羽捕っちゃった」

「もう捕ったって、今し方の一発でターミガンを仕留めたんですか?」

 信じられない思いで問いかけた。

 動きの遅い雷鳥の仲間とはいえども、ターミガンは飛んで逃げることのできる野鳥だ。

 それをショットガン(散弾銃)ならいざしらず、最小口径の二十二口径ライフル弾ただ一発で仕留めてしまった。

 当時のわたしはアラスカで越冬する間、シロクマ対策と称して、七・六二ミリ口径のライフルを所持し、ある程度使いこんでいた。

 だからたとえ動きの遅いゲーム(獲物)でも、ある程度の距離を置いて仕留めることの難しさは承知していた。とりわけターミガンのような小型の鳥類をライフルで仕留めるのは、至難の技と言っていい。

「すごいな。見に行きましょう」

 わたしが腰を浮かせてそう言うのに、細君は強い目つきで顔を横にふって止めた。

「だめよ、まだ」

 彼女のその言葉が終わらないうちに、また銃声がした。ウォルターが銃を地面に置いて立ち上がった。

 一泊二日のこの旅で、流れ下った距離は四〇マイル(約六五キロ)。狩りやブルーベリー摘みに費やした時間は正味十時間足らず。

 得た収穫はターミガンが五十羽、ブルーベリーは大型バケツ五杯、重さにして約五〇ポンド(約二三キロ)。

「いつもより収穫がうんと少ないけれど、今回は最初からフィフティ、フィフテイが目標だったの。自然を荒らさず、長く恵みを受け取るようにという神様の思し召しよ」

 そう言って楽しそうに笑った細君の言葉には驚かされたが、わたしにとってもこの旅がもたらしてくれた収穫は、実に大きかった。

 なによりも途中網の目のように分流し、本流と支流の区別がつきにくい原始河川の旅を経験できたことは、以後の人生に計り知れない影響をもたらした。

 絶対に後戻りできない、しかも行く手に予測不能の困難が待ち受けている旅。

 音をたてずに移動して行くので、水辺を徘徊するグリズリーやウルバリンのような危険で臆病な野生動物に、通常なら考えられないほどの近距離まで接近して対面できるという楽しみもある。

「だから釣り人だけではなく、ハンターや学者にとっても、フロートトリップは最良の移動手段だと言っていい。いっぽう、ある程度経験を積んで川に関する知識や技術を身につけないと、簡単に命を落とすぞ」

 旅の途中、ウォルターがそう言って、川下りに必要な知識と技術の数々を伝授してくれたことも大きかった。

 以来この手の浮草旅行に病みつきになり、主としてアラスカの川を稽古場に、多くのフロートトリップを楽しんできたこの半世紀の間、アラスカ東南部の原始河川アラグナック川のように二十年以上も通い続け、毎回一〇〇キロ余りも下った川を含めると、三桁に近い回数のフロートトリップを行ってきた。

 社会人になってしばらくは時間的制約もあって、おもに日本国内の川での浮草旅行を楽しんだ。日本の川の多くはダムや堰堤などの制約が多く、原始河川のようにのびのびと旅するわけにはいかない。

 そんな中で、今でも当事者同士が顔を合わせると、あれはなあと苦笑する旅もある。

 時は一九七〇年代末の秋口。場所は北海道東部の、摩周湖からの伏流水が源と言われる西別川。

 顔ぶれは長年の釣り仲間でカメラマンの加納典明、平凡パンチ時代の同僚松田典之、そしてわたしの三名。

 この年の釣り閉めを西別川と決めたのは、大型のレインボウが釣れるという情報があったから。伝手を頼って頑丈なラフトを二隻、格安で手に入れ、勇躍、中標津空港経由で西別川源流に入った。

 この日の道東は、季節はずれの暖かさで、嫌な予感がした。本来冷涼な季節であるはずの道東で異常高温に出会うのは、天気が大きく崩れる予兆にほかならない。

 しかし、いまさらそんなことを心配してもしかたがない。出発点と定めた場所の、水辺から少し離れたところにテントを張り、その夜は早々と寝袋にもぐりこんだ。

 夜半になって暗黒の空の底が抜けたような土砂降りになった。朝方、ようやくテントを叩く雨音が低くなったと思いつつ、うつらうつらしていた時、突然猛烈な獣臭と、多数の大型動物の足音に取り囲まれた。

 テントの小窓から外をうかがうと、目の前に巨大な牛の尻。われわれの出発地点は、牛が放牧されている牧場の水飲み場だった。慌ててテントから抜け出し、出発の準備をした。

 一隻のラフトには荷を積まず、加納と松田を乗せて先行してもらうことにした。わたしは荷物を積んだラフトをひとりで操船、先行ラフトの人間の落水や荷物の落下に備えた。

 昨夜来の豪雨で、流れは土色に染まっている。流速も速い。

「国内の川だと、舐めたら危ない。気をつけて行こうぜ」

 声をかけあった後、加納と松田のラフトが出発した。増水で流速が速く、あっというまに彼らのラフトが視界から消えた。

 泥水の急流を流れ下るという初の体験。しかも川幅が狭く、岸から倒れかけた木が、川面すれすれの状態で行く手をふさいでいる。

 これはやばい。倒木を避けながら必死で操船し、先行するふたりを追った。

 出発して三十分ほど経過した頃、川幅がやや広くなり、流れが直線になって行く手の見通しが良くなった。

 その時、およそ五〇〇メートル先の左岸の木の枝に、何かが取りついているのが見えた。黒っぽい猿のような形の生物らしきものが、川面に延びた枝にしがみついている。

 でも北海道に猿はいないはず。訝る間にラフトはどんどん近づいて行く。突然猿らしき物が動き出し、わたしに手を振った。

 五〇メートルぐらいまで接近したところで正体がわかった。先程無事を誓いあって先行したばかりの松田典之だった。

 慌ててラフトを左岸に寄せ、松田がしがみついている木の手前に接岸。岸辺の柳をわしづかみにしてロープをもやった。

「どうした?」

 地上に降り立ったずぶ濡れ状態の松田に問いかける。どうしたも、こうしたもないとの前置きつきの説明で、状況がわかった。

 ラフトの船首で操船していた松田がタバコを吸うために、わずかの間操船を加納に任そうとした時、目の前に太い倒木の枝が迫ってきた。船尾の加納が懸命にラフトを右岸に寄せようとしたが、間に合わなかった。

 ラフトは倒木への衝突を免れたが、船首にいた松田がなぎ倒され、気がついた時は水中だった。

「必死で倒木に抱きつき、枝によじ登った。加納に止まれと叫んだが、時すでに遅し、だった」

 ふだんものに動じない松田が、唇を白くして寒さに震えている。

 ひどい状態なのに、思わず吹き出した。松田に乾いた雨具を着せて加納の後を追った。

 加納を乗せたラフトに追いついたのは、それから約三十分後。

 川幅がさらに広くなる地点までノンストップで下り、そこでいったん岸に寄せて、善後策を話し合った。出てきた方針は、とにかく一匹釣るまでがんばろうというものだった。

 黄昏が近づいた午後五時すぎ。ずぶ濡れのまま頑張っていた松田が、二〇センチ弱のレインボウを釣り上げた。

 これで良し。そう結論付けて、その後最初にくぐった橋のたもとを終点にした。

 ラフトをたたみ、すべての荷物をパックし終えたところで、橋から五〇〇メートルほど離れた民家で電話を借りて、タクシーを三台呼んだ。二台は荷物専用で、残る一台に人間が乗って根室の市街をめざした。

 夜。やっと確保したホテルで風呂に入り、着替えて繰り出した根室の夜の盛り場で、その時点までの反省会をやった。浮草旅行を途中で切り上げたのは、悪天候という不可抗力のせい。ゆえになんの問題もなし。

 問題は費用対効果だ。今回の旅にかけた現時点までの主たる費用は、新調したラフト二隻と、根室標津までの往復航空運賃三人分。途中で切り上げた地点からの根室までのタクシー代。これで約三十万円。

 この夜以降の費用は宿代と飲み代。明朝荷物を東京まで送る送料と、中標津空港までのタクシー代。この合計がおよそ約十万円。

「合計約四十万円で、獲物は体長二〇センチのニジマス一匹。高いニジマスだなあ」

「一人当たり約十三万三千円。どうする?」

「俺、今後年末まで夜間の部活を止める」

「俺はもともと夜の部活とは無縁だ。やめるとすれば、タバコとマージャンだな」

「そうそう。今後の生活態度改善に寄与するなら、今回の旅は成功だった」

 というわけで、この時の浮草旅行は、生活態度改善にもつながるという結論を得て、中じめとなった。

益田由美(ますだ ゆみ)

東京都出身。早稲田大学文学部卒業、1977年フジテレビ入社。『なるほど!ザ・ワールド』のリポーターとして世界各地を飛び回る。その後『リバーウォッチング』『晴れたらイイねッ!』『なるほど!ザ・ニッポン』『ちいさな大自然』を企画、プロデュース、出演。2015年フジテレビ定年退職。

西木正明(にしきまさあき)

作家
1940 年、秋田県生まれ。
早稲田大学教育学部社会学科中退。
大学在学中は探検部に所属。平凡出版 ( 現・マガジンハウス ) 記者を経て作家として独立。
1980 年『オホーツク諜報船』で日本ノンフィクション賞・新人賞を受賞。1988 年『凍れる瞳』『端島の女』( 作品集『凍れる瞳』) で第 99 回直木賞を受賞。1995 年『夢幻の山旅』で新田次郎文学賞を受賞。2000 年『夢顔さんによろしく』で柴田錬三郎賞を受賞。

原作◎西木正明  朗読◎益田由美  画◎シノハツミ