2016
06.10
[ 53 号掲載 Vol.30 ]
Tales of flowers and fishes
花と渓流魚の物語

エッセイスト、編集者として活躍する湯川 豊氏の『約束の川』。今回は、「花と渓流魚の物語」と題して、フライフィッシャーとしての長いキャリアのなかでであった白い花についてのエッセイです。深山幽谷のなかにも人の営みがあり、春になるとそのわずかな賑わいをそっと見守るように、木々は可憐な花を咲かせる。そんな心温まるエッセイをフジテレビの人気アナウンサーとして活躍した、益田由美さんの朗読でお伝えします。

The Promised River

約束の川 Vol.30

文◎湯川 豊

花と渓流魚の物語

Tales of flowers and fishes

 この数年、春に四国の谷へ行くのがならわしのようになってしまった。

 なぜなのか。必ずしもアマゴ(あるいはヤマメ)がよく釣れるわけではない。どちらかといえば、東北や北陸の春の谷で釣るほうが、数も多いし型もいい。それなのに、四国の谷へ行きたいと思う理由が、一昨年の春の釣りで、「ああこれなんだ」とつくづく納得できた。

 行ったのは四月二十日頃だったが、吉野川の支流も仁淀川の最上流でも、そこにはまさに花の谷があった。

 村里の近い流れでは、ソメイヨシノはすでに散っていたが、サトザクラが絢爛という風情で満開。さらに少し谷の奥に入ると、そこここでヤマザクラの薄紅色に体が包まれた。春がここにある。そう思いながらロッドを振りつづけた。一五センチから二〇センチの、朱点が可憐なアマゴを時折手にすると、何か途方もなく貴重なものを手にしている気分になった。春の谷の魔法にかけられていたに違いない。

 春の谷の魔法。たしかに、四国の春にはそれがある。行く時期が少し早すぎたり、行く場所が石鎚山直下だったりすると、その限りではないのだが、一昨年のように時期と行く場所がうまく合えば、サクラの花びらの一枚一枚が春そのものであるのを、一身に感じることができるのである。そして「水温む」流れで、よみがえった宝石のようなアマゴを手にすることができる。

 もちろん、なじみ深い東北の谷だって、時期がくればサクラは咲く。しかし、いつもではないにしても、サクラの花のまわりにはまだ立ち去らない厳しい余寒があることが多く、春に包まれてヤマメやイワナを釣っている感じがしない。むしろ、ヤマメやイワナが毛鉤を追って姿を現すから、春が立ち返ったのだな、とようやく思うことができるのである。 年を重ねたせいだろうか、谷で春に包まれたいという気持ちが強くなった。そういう釣りびとにとって、春の四国の谷は誘惑のようにそこにある。

***

 そんなふうに谷と花々、釣りと花について思いをめぐらせてみると、東北の谷では、夏の先がけとなるような花のほうが目に焼きついている。新潟以北の谷は、釣りびとから見るとやはり晩春から初夏にかけてが、いちばん魅力的なのだ。

 新潟の最北部に、かつて「秘密の谷」として大切にしていた小渓があった。秘密がなぜバレてしまうのか、決定的な理由がよくわからないのだけれど、とにかく数年前から釣りびとの影が多くなって、「秘密の谷」は釣れない谷に陥落してしまった。しかし僕は十年ぐらいその小渓を楽しんだのだから、まずはよしとしなければならない。

 車でその谷に向かうと、道の両側に丈高いキリの木が現れて、時期がかなっていれば紫の花が迎えてくれた。迎えてくれた、というのは言葉のアヤでいうのではない。かなり長い距離、ずっとキリの花が絶えずにあって、最後の集落にも目印のようにあの円錐花序の紫があったから、それにみちびかれてその小渓にたどりつくのだった。谷は里山のいちばん山奥にあったのである。そして、キリの花の咲く時期が、ヤマメやイワナの活性がいちばん高く、はずれるということがなかった。

 山村の集落では、おそらく女の子が生まれるとキリの木を植える、という風習が長くつづいたのである。キリの大木は、大切に伐られて、嫁入りの箪笥になったりしたのだろう。桐箪笥という言葉があるように。その習俗がなくなった今は、ただ花が道の両側を飾っている、というだけになった。

 キリは人の暮らしに密着している木だけれども、僕は人の暮らしとあまりかかわりなく、谷の奥にひっそりと咲いている、木々の白い花も好きだ。

 たとえばこれも円錐花序のトチの花。あの白い花は、谷筋にひっそりと咲いていてフライ・ラインの先に不意に現れたりする。びっしりした花をつけたトチは、なにか雄弁に語りかけてくるようだけれど、なにを語りたいのか、よくわからない。

 僕はしばらく花をながめ、意識を谷の流れのうえに戻す。そして谷と無言の話を交わし、話がうまくいったときは、橙黄色に光るニッコウイワナの大型を手にしていたりする。トチの花の下には、きっといいイワナが棲んでいる、などと勝手な物語をつくって、ひとりで悦に入っているのだ。

 山の樹木には、白い花が多い。葉がトチに似たホオノキは大きな白い花を同じ時期に咲かせる。ミズキも白い花で谷をハデにいろどるし、あの秋には真っ赤な実をつけるナナカマドも、緑のなかに白い泡のように見える花をつける。

 谷筋の樹木の花は、いかにも渓流釣りの盛期を思わせるし、僕たちの目を慰めてくれるけれど、釣れるときは慰められる必要もない、ともいえる。釣れなかった日の、長い林道の帰り道に、白い花を見て、「でも、まあ、いいか」などと心のなかで呟くのである。

***

 白い花といえば、いちばん目に焼きついているのは、ヤマナシの花である。大木のヤマナシは、木の全体が白く泡立っているみたいに豪壮に咲く。あの白い泡立ちは、やがて滝になって地上に流れ落ちてくるのではないか?

 石川県の白山麓一帯は山奥に集落があったり、焼畑の出作り小屋があったりするが、僕は集落の入り口、また小屋の背後に、目印のように立つヤマナシの花に、何度目を奪われたことか。

 ヤマナシの木の下にはたいてい人の営みがある。だから白く泡立つ花には、どこかいいようのない懐かしさがある。

益田由美(ますだ ゆみ)

東京都出身。早稲田大学文学部卒業、1977年フジテレビ入社。『なるほど!ザ・ワールド』のリポーターとして世界各地を飛び回る。その後『リバーウォッチング』『晴れたらイイねッ!』『なるほど!ザ・ニッポン』『ちいさな大自然』を企画、プロデュース、出演。2015年フジテレビ定年退職。

湯川 豊(ゆかわゆたか)

1938年、新潟県生まれ。作家、エッセイスト。
慶応大学文学部卒業後、㈱文藝春秋社に入社。『文學界』編集長、同社取締役・編集局長などを経て2003年退社。著書に『イワナの夏』、『夜明けの森、夕暮れの谷』、『ヤマメの魔法』などがある。

原作◎湯川 豊  朗読◎益田由美