2015
09.04
[ 51号掲載 Vol.28 ]
Looking for another world
別天地を求めて

エッセイスト、編集者として活躍する湯川 豊氏の『約束の川』。フライフィッシャーとしての長いキャリア、そして文藝春秋社の編集局長まで勤め上げた、文字のプロが語るその軽妙な臨場感は本誌でも人気です。そこで『Fishing Café Vol.51』第28回目のエッセイから、フジテレビのアナウンサーとして長く活躍した、益田由美さんの朗読でお伝えしていきます。

The Promised River

約束の川 Vol.28

文◎湯川 豊

別天地を求めて

Looking for another world

 夏の釣りは、とりわけ別天地を求めている趣が強い。暑苦しい世俗から離れて、別の世界にいっときでもいいから遊ぶ。夏休みなどをとって、北国の緑深い渓谷へ行こうとするのは、そういう欲求に動かされてのことだろう。

 そして思惑通りに別天地に行きつけるかどうかは、保証のかぎりではない。とはいっても、三度に一度ぐらいは、ああ、これは別天地だ、と思うことがありそうな気がする。山形県の長井市に、しゃれた都市ホテルがある。たまたまそこに泊まって、部屋の窓から見える山脈の奥の渓流に行ってみることになった。

 つづら折りの山道を飽きるほどの時間をかけて車で登っていくと、そうとうな高度に達したところに大きなダム湖が現れた。山上のダム湖である。ダム湖に沿ってある舗装路を進むと、その先はこれも山上の広い盆地で、盆地のなかに一本の清澄な流れがあった。

 持ってきた五万分の一の地図を広げて、友人のBさんと二人で位置を確かめてはみたが、地図から眼前の光景を想定するのは難しかった。東西にさして高くは見えない山なみがあり、空が広いのはその山上の盆地が思いのほか広いからだった。そこに川が流れている。そして登山小屋が一、二軒あるだけで、盆地に集落はない。地形からいって、別天地という言葉がふさわしかった。

 ダム湖の流れこみに近い下流部は、ゆったりした厚い長い流れが多く、傾斜のあるザラ瀬が長い流れを結んでいた。

 川べりの樹々を通して、朝の光が流れに光と影のまだら模様をつくり、その模様のなかに二つ、三つと静かなライズがあった。フライを選ぶ必要はないだろう。勝手にそう思ってカディスの十四番を浮かべると、みっしりと肉をつけたイワナがつぎつぎにかかった。大もあり小もあり、一つの長い流れから、さまざまな型のイワナが順不同にあがってきた。車に戻って道具を取りだし、味噌汁とコーヒーをつくって朝飯にした。二台ほど上流へ向かう車があったが、釣りびとかどうかわからなかった。

 それをまったく気にしなかったのは、Bさんも僕も、下流部のゆるやかな流れがこの先もどこまでも続く、と思っていたからである。そして、食事の後、また流れに戻ったが、先行者には出会うことがなかった。

 午後、地図で確認した支流に入ってみると、さらに、すごいことが起こった。本流よりはうんと段差のある小渓だったが、二人並んで歩いても大丈夫な川幅があった。

 Bさんが釣りあげるのを見て、僕がポイントにフライを入れる。そして僕が釣りあげたとき、Bさんはリリースの後、また流れに向かってフライを投じている。そんな忙しいリズムで釣りをしたのは、ちょっと例が思い当たらないほどだった。それが夕暮れまで続いた。

 夕暮れまで、盆地の川で遊んだ。暗くなった山道を町に向かって下りていくと、ときどき道幅でヨタカに出会った。道の片隅で、この大きな鳥は擬傷の羽をひろげてみせた。

 

 新潟北部にあるその目立たない川は、また別の趣をもつ別天地だった。

 小さな集落を過ぎ、三キロも行くと川は二つに分かれる。その左側の流れは五〇〇メートル先に、かなり大きなダムがあった。右側の細流を釣り場にしていた僕が、友人のNさんを誘ってダムの上の流れに入ったのは、ちょっとした冒険心と好奇心からだったに違いない。

 ダム沿いの細道をぐねぐねとたどって、広い流れこみに出た。砂地の流れ込みには、根元が水に浸かった樹々が林をつくっていて、朝の霧が林にまとわりついていた。

 広い河原のなかを一筋の流れがあり、河原は白い砂利で埋まっていた。砂利といっても、拳大の石が主体で、朝の光のなかで、そこはまさに白い谷だった。三十分は釣れない、ひたすら奥に向かって歩け。ここを教えてくれた役場勤めの友人はそういった。

 流れに、大きな段差がない。ゆるやかな瀬が、蛇行しながら奥へ奥へと僕たちを導いた。四十分ほど歩いてロッドを振りはじめたが、魚はなかなか出なかった。

 一時間後、白い河原の、白い岩の陰からようやく一匹の魚が出た。ブルーダンにとびついた魚が半身を流れにさらしたとき、これは何だ! と僕は叫んだ。叫んだ後、真っ白なイワナを手もとに寄せた。イワナのアルビノか(そんなものはいないけれど)、と思ってしまうほど、白いイワナだった。体全体から褐色がうすらいで、茶色っぽい痕跡がむしろ黄色味を帯びているように見えた。白点は地肌とほとんど区別できない。だから、白いイワナという以外なかった。

 僕はNさんと共に、どんどん流れの奥に進んだ。三十分に一匹、とあまり魚は釣れなかったけれど、一人五匹ずつ釣ったところで、この谷での釣りを終りにした。

 日陰に座って、昼飯にした。真白な河原と、両岸の斜面の緑。木の緑が河原に黒い陰をつくるコントラスト。そして、見たこともない白いイワナ。魚の色は環境がつくる保護色だとしても、別世界で別の渓流魚を釣っている思いがした。

 

 そして、雨も別世界をつくる。

 信州のその小さな川は、入渓点がいい流れになっていたが、反応ゼロ、一匹も釣れなかった。奥へ奥へとひたすら進み、大した釣果がないまま、夕方、その入渓点に戻った。

 暑かった夏の日を雲がおおい、夕立になった。二十分で細い雨に変わると、反応ゼロだった流れがライズで湧き立った。突然、別の流れがそこに現れたのだ。しばらくはただ茫然と流れとライズを眺め、竿を出すのを忘れていた。

益田由美(ますだ ゆみ)

東京都出身。早稲田大学文学部卒業、1977年フジテレビ入社。『なるほど!ザ・ワールド』のリポーターとして世界各地を飛び回る。その後『リバーウォッチング』『晴れたらイイねッ!』『なるほど!ザ・ニッポン』『ちいさな大自然』を企画、プロデュース、出演。2015年フジテレビ定年退職。

湯川 豊(ゆかわゆたか)

1938年、新潟県生まれ。作家、エッセイスト。
慶応大学文学部卒業後、㈱文藝春秋社に入社。『文學界』編集長、同社取締役・編集局長などを経て2003年退社。著書に『イワナの夏』、『夜明けの森、夕暮れの谷』、『ヤマメの魔法』などがある。

原作◎湯川 豊  朗読◎益田由美