2017
02.10
[ 55号掲載 Vol.32 ]
Rainbow trout story
わがニジマス物語

エッセイスト、編集者として活躍する湯川 豊氏のエッセイ『約束の川』。毛鉤釣りの長いキャリアから紡ぎだされた上質な文章は、本誌でも人気コンテンツのひとつです。
そこで、第32回「わがニジマス物語」と題して、湯川さんの過去のニジマス釣りを題材としたエッセイをフジテレビの人気アナウンサーとして活躍した、益田由美さんの朗読でお伝えします。

The Promised River

約束の川 Vol.32

文◎湯川 豊

わがニジマス物語

Rainbow trout story

 日本の渓流魚といえば、ヤマメとイワナ。僕がフライ・フィッシングをはじめた頃はそう決まっていて、ニジマスは入っていなかった。いまは北海道が渓流釣りの絶好のフィールドと考えられるようになり、それにつれてニジマスがあたりまえのように渓流魚のひとつになっている。

 そればかりじゃない。渓流のニジマス釣りがいちばん好き、というフライ・フィッシャーが、僕のまわりにもけっこう多いという事態になっている。では、自分自身とニジマスの関係はどうであったか。これを機に、わがニジマス物語をたどってみようと思いたった。

* * *

 最初に野生のニジマスに出会い、その魅力を知ったのは奥日光のS湖だった。作家の開高健さんがどこからか特別許可を得てきて、湖でルアーとフライに興じた。

 開高さんもルアーに熱中してまもない頃、僕はフライをはじめて三年くらいだったか、とにかく釣りの魔法が心と体にじわじわと浸透している時期だった。

 湖のニジマスは自然繁殖のサイクルに入っていて、大きくはないけれどその姿はとびきり美しかった。大きくならないのは、そこが貧栄養湖であったからである。つまり水がきれいすぎて、ニジマスの餌になる生き物があまり育たないのだった。

 手こぎボートに腰かけて、頼りないキャスティングで、頼りないロイヤル・コーチマンを岸辺近くの水面に浮かべると、襲いかかるという感じでニジマスが身をくねらせた。そしてしばしば空中高く飛んだ。そのとき目にする紅色の帯は、いのちの躍動をつたえるかのようで、空にかかる虹よりもずっと心を奪った。

 三〇センチ以上のものが釣れると、山小屋での夜食の材料として、借りてきた魚籠に入れた。夜に食べる切り身の空揚げはめったにないほどうまかった。しかし三日もつづくとなんだか飽きてきて、肉が食べたいと思ったりしたのは、贅沢というより若さのせいだったのではないかと、いま苦笑しながら思うのである。

 あの湖での春と秋の釣りは、六年ほどつづいただろうか。それでもニジマス釣りといえば、この湖に限られていたのは、ニジマスが自然繁殖している谷が見当たらなかったからである。いや、熱心に探せばその当時でもあっただろうが、イワナ・ヤマメの釣りだけで十分忙しかったのだ。

 その頃、一度だけ、兵庫県と鳥取県の国ざかいにある氷ノ山の山すそで、不思議なニジマス釣りをしたことがある。関西在住の某氏が、ニジマスが自然繁殖している谷があるといって、連れていってくれたのだった。

 斜面全体が見渡すかぎりのススキ原。そのススキ原の中腹を割るように林道が走っていて、車を進ませると細い流れに行き当たった。ここから流れに入る。自分は上流に行く、君は下流をやれ。しばらく下れば、流れは五メートル幅ぐらいになるから、フライでも十分やれるはず。某氏がそういったので、僕は半信半疑で下流に向かった。

 半信半疑、というのは、こんな狭い流れにあのニジマスが自然繁殖しているなんて、僕のそれまでの知見では考えられなかった。

 しかし、ニジマスはいた。いたどころか、ほとんど一投一尾という感じで、どんどん釣れた。大きさは多くが二〇センチほど、ごくまれに二五センチほど。ほとんどヤマメという感じで、ポイントからはむろんのこと、ポイントとは思えないようなチャラチャラした薄い流れからも魚は顔を出した。フライを選ばずに出てきた。

 一キロ近く谷を下りながら釣ったが、あまりに単調な釣りにめずらしく飽きたような気分になって、早々と入渓点に戻った。

 釣れた魚はヒレがピンと張って、黒点をちりばめたきれいなニジマスである。しかし、全部が同じ型、つまり判で押したように小さい。高原の見捨てられたような流れに、いつかニジマスが放流され、それが渓流魚として生きのびて、ニジマスの王国をつくった。

 そうだとしても、これはなんと小さな王国であることか。もしかすると、ニジマスがニジマスであることを失いかけているのではないか。そんな思いが残る、不思議なニジマス釣りだった。

* * *

 山形県の過疎地を流れる小さな流れのニジマスは、同じく小さな流れに棲むものだったがようすが違っていた。

 流れの最上流部にかつては栄えたらしい村があり、その村のはずれにわりと流れの激しい山岳渓流があった。イワナがいそうだ、というので集落跡地から野道をつたって谷へ下りた。

 ロッドを振ってみると、二匹に一匹はニジマスで、このニジマスは大きく(といっても三〇センチ以内)、とてつもなく元気がよかった。幅四、五メートルの流れであばれまわり、勢いあまって岸辺の砂地に身を乗りあげる、という激しい動きだった。

 同じ小渓流に適応したニジマスといっても、流れの位置や条件で、これほど違いが生じるのである。

 その流れから車でそう遠くない庄内の川で、僕は昔からヤマメ釣りを楽しんでいるが、こっちがヤマメを狙っていても、流れの場所によってはニジマスがたまっている。

 数年前に岩手の宇田清、高橋啓司を誘ったら、二人は気軽に誘いに乗ってくれた。そして、ニジマス大好きの高橋のフライに、その川の巨大なニジマスが姿を現わしたのである。彼はこれをかけそこねたのだったが、次の年の秋にも再挑戦する熱の入れようだった。

 その高橋と、今年北海道でニジマス釣りをする予定だったが、僕のつごうがどうしてもつかなくて、行けなかった。それが、二〇一七年の僕の釣りの目標になっている。

益田由美(ますだ ゆみ)

東京都出身。早稲田大学文学部卒業、1977年フジテレビ入社。『なるほど!ザ・ワールド』のリポーターとして世界各地を飛び回る。その後『リバーウォッチング』『晴れたらイイねッ!』『なるほど!ザ・ニッポン』『ちいさな大自然』を企画、プロデュース、出演。2015年フジテレビ定年退職。

湯川 豊(ゆかわゆたか)

1938年、新潟県生まれ。作家、エッセイスト。
慶応大学文学部卒業後、㈱文藝春秋社に入社。『文學界』編集長、同社取締役・編集局長などを経て2003年退社。著書に『イワナの夏』、『夜明けの森、夕暮れの谷』、『ヤマメの魔法』などがある。

原作◎湯川 豊  朗読◎益田由美