2016
07.15
Vol.53 前篇 The Char which does Strange illusion
特集『岩魚変幻』変容するイワナの謎「10万年の奇跡、ミヤベイワナを探る」より

希少種、然別湖のミヤベイワナ研究の魅力

文◎本誌編集部 写真◎知来 要

 十勝平野の然別湖(しかりべつこ)で初めて国の天然記念物であるミヤベイワナを釣ったのは、2011年6月のこと。湖畔からシャローの駆け上がりをめがけて派手なニンフを沈め、クイックにリトリーブして釣った記憶がある。背は緑色で、北海道に生息する同種のオショロコマに比べて、まず体長があり胸ビレが比較的長い。どちらかというとサハリンやカムチャツカに生息するドリーバーデンチャーに近い印象だった。シベリアや北欧には、ロングフィンチャーというドリーバーデン系の魚がいるが、この外見的な特徴であるヒレの長さは、まさにロングフィンの部類に入り、その美しさをさらに際立てているように思えた。

然別湖は貴重なミヤ ベイワナを釣り人へ 開放しながらも守る、 という取り組みを行 っている。写真は解禁 期間中にボートを出 す釣り人たち。

然別湖は貴重なミヤ ベイワナを釣り人へ 開放しながらも守る、 という取り組みを行 っている。写真は解禁 期間中にボートを出 す釣り人たち。

 このミヤベイワナが生息する然別湖は、北海道十勝の鹿追町北部と上士幌町南西部にまたがる湖だ。山々に囲まれた風光明媚な湖畔には温泉がこんこんと湧き2軒の温泉ホテルが並び、釣りが目的でない人でも楽しめる十勝地方の観光名所だ。
 北海道では最も高い標高810mに位置する湖で、周囲は14キロ弱。最大深度は108mもあり、その容積を満たしている流入河川は、湖の北東部から流れてくるヤンベツ川。そして流出河川は、南西部から流れ出す然別川(トウマベツ川)となっている。湖にはミヤベイワナのほかに、放流され自然繁殖した元気の良いニジマスやサイズはそれほどではないがギラギラと銀色に輝くサクラマス。そして、ワカサギやウグイなどが生息している。
 この大自然に囲まれた然別湖が生成された説は二通りあり、火山の噴火活動によってつくれた「カルデラ湖」という説と、噴火により川が堰き止められてできたという「火山性堰止湖」説だ。現在は、火山性の堰止湖が有力説となっている。そして、この火山活動による然別湖の誕生が、ミヤベイワナが生まれた大きな理由である。

然別湖の特別解禁は年2回。毎年、全国からその日を待つ釣り人が訪れる。

然別湖の特別解禁は年2回。毎年、全国からその日を待つ釣り人が訪れる。入漁に関する詳しい情報は、http://www.shikaribetsu.com/

 今回取材したミヤベイワナ研究の第一人者である、動物背板学者の前川光司先生は言う。
「ミヤベイワナが、いつ然別湖に入ってきたのか? 実は正確にはわかっていません。以前に遺伝的な手法で調べた結果、おおよそ10万年くらいではないかと推測されています。そのころは北海道全体にオショロコマが生息しており、然別川の上流へ上っていたのもミヤベイワナではなく、普通のオショロコマだったと思います。
 ところが、現在の湖の両側にある火山が噴火し、然別川上流の流れが堰止められて然別湖ができたという説があり、そこにオショロコマが閉じこめられたのが10万年前ではないか、という推測です。ひと言に10万年前といっても、1万年前から10万年前までなのか、20万年前から10万年前なのかは特定ができません。ですから『およそ10万年前』という推定には、ものすごく大きな誤差があるのです」

流入河川のヤンベツ川に産卵遡上するミヤベイワナ。湖にいるときは背中の色がブルー、岸辺の浅い場所や川に入るとグリーンに変わる。

流入河川のヤンベツ川に産卵遡上するミヤベイワナ。湖にいるときは背中の色がブルー、岸辺の浅い場所や川に入るとグリーンに変わる。

『古来、然別湖にはアイヌ人が“ヤヤチップ”と呼ぶ特殊なイワナが、多産し棲息する。しかもこのイワナは、美しい鮮紅色点が散在する極めて鮮麗な種類……』
 そう伝えたのは、ミヤベイワナをオショロコマの亜種とし、生物学者として日本の淡水魚分類学の礎を築いた大島正満博士だ。その後、前川先生たちの研究でミヤベイワナは、オショロコマが10万年以上もの間、陸封された結果、世界で珍しい個性的な種となったといわれている。
 その個性的な部分とは見た目だけの印象ではなく、最も大きな特徴は「ミヤベイワナはプランクトンを食べる」ことだ。もともと通常のオショロコマは、降海型の魚で海に降りると魚食性になる。しかし、然別湖には他に魚がいなかったため、安定して得られる餌はプランクトンしかなかった。そこで、効率的にプランクトンを食べられるように適応したのだという。
「然別湖に適応した変化とは、鰓耙(さいは)数の違いです。鰓耙とは、魚類の鰓弁(えらべん)の反対側にある櫛状の器官です。イワシやアユなどプランクトンを食性する魚で特に発達しており、吸い込んだ水の中から餌のプランクトンを濾しとる役割を果たすものです。
 櫛の数が増え密になるほど、小さいプランクトンを食べられるようになります。北海道の然別湖以外にいるオショロコマの鰓耙の数より、然別湖のものは平均で6本くらい多い。普通のオショロコマは20本前後。ミヤベイワナの場合は、26本前後ですからかなり多いですね。それが、もっとも大きな違いです」

然別湖の流入河川はヤンベツ川一本だけだ。そのため、秋の産卵期にはおびただしい数のミヤベイワナが遡上する。

然別湖の流入河川はヤンベツ川一本だけだ。そのため、秋の産卵期にはおびただしい数のミヤベイワナが遡上する。

 ミヤベイワナを最初にみつけて論文の形で公表したのは、大島正満博士だったが、彼は普通のオショロコマとは、形態が少し違うために別種として記載した。その当時の魚類研究でも、鰓耙数を数えることは基本だった。しかし、大島博士ももちろん鰓耙を数えたはずだが、なぜかミヤベイワナの鰓耙数を見落としていたことが不思議でならない、と前川先生は語る。
 その前川先生が、ミヤベイワナを研究するようになったきっかけは、ほとんど偶然だった。大学院時代にイワナの生態学を研究していたのだが、「そういえばミヤベイワナについて、何もわかっていないな」と気づき、その当時、資料として残っていたのは大島正満博士の分類資料しかなかったそうだ。驚くことにミヤベイワナの生活史は、全く知られていなかったという。以来、45年間、前川先生はミヤベイワナの研究を続けている。それほど、研究者を魅了するサケ科魚類が、ミヤベイワナなのだ。

湖水温度と気温の関係で、幻想的な風景が展開される然別湖。釣れる、釣れないにかかわらず、この風景の中でロッドを振ることは、釣り人にとって至福の時間だ。

湖水温度と気温の関係で、幻想的な風景が展開される然別湖。釣れる、釣れないにかかわらず、この風景の中でロッドを振ることは、釣り人にとって至福の時間だ。

「人間も魚も昆虫も含めた動物界の中で、またひとつの種類の中で、これほど変異に富んでいる種類はイワナではないか」という論文が発表されており、前川先生と仲間とのDNA解析では、「オショロコマが他の魚種から派生したのは、日本海ではないか?」という見解もある。そのあたりも前川先生が、ミヤベイワナ研究から離れられない理由だという。
「かなり昔に日本海が閉じられ、その後、温暖化で海となった時点で一部のオショロコマが北方に上がり、北極イワナや北アメリカのドリーバーデンチャーになっていった、というものです。また、『北海道のオショロコマは、北米アラスカやロシアのシベリアなどのオショロコマとは、別種ではないか?』という研究も進んでいます。
 そういったなかで、オショロコマから派生したミヤベイワナは、どんな位置づけにあるのか。あるいはイワナを研究するうえで、大きなヒントになり得るかもしれません。私たち研究者にとって、まだまだ解明しなくてはならないことは山積みですが、だからこそこのミヤベイワナには、神秘性が潜んでいるのだと思います」と、最後に語ってくれた。

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